連載「玄界島の10年」(下) 若い世代で漁業復興を

西日本新聞

避難所まで、車いすを引く久島暢赳君(右)=20日午前9時22分 拡大

避難所まで、車いすを引く久島暢赳君(右)=20日午前9時22分

 山に張り付いたような坂道を、歯を食いしばりながら駆け上がる。

 玄界島(福岡市西区)の島民約200人が参加した20日の防災訓練で、玄界中学2年の久島暢赳(まさたけ)君(14)は、けん引バーのついた車いすにお年寄りを乗せ、避難場所の体育館へ向かった。福岡沖地震が発生した20日、島では毎年、防災訓練がある。

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 久島君はこの春から、防災組織「BGFC」(少年少女消防クラブ)の隊長を務める。40年以上続く隊には、玄界中学の生徒が全員入隊する。島には消防署がなく、男たちが漁で海に出ていて不在のとき、女性とともに中学生が防災活動に従事する。隊員はかつて100人以上いた。今は4人しかいないが、久島君は「島の人の役に立ちたい」と力を込める。

 10年前のあの日、保育園が休みで自宅にいた。大きく揺れ、窓ガラスが割れて破片が飛び散った。小学1年だった姉と一緒にトイレに逃げ、揺れが静まるのを待った。怖かった。

 漁師の父にあこがれ、将来は同じ道を歩むことを考えている。でも漁業が衰退する島の現状では「難しいんじゃないか」とも感じる。

 訓練中は自分に強く言い聞かせた。「この島は僕たちが守ってみせる」

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 復興を遂げた島には整然とした町並みが広がるが、若者の「島離れ」がどんどん進んでいる。残った若者たちの危機感は強い。

 漁師の宮川友芳さん(28)は2013年5月、「島づくり推進協議会」の3代目会長に就任した。

 協議会は、09年に島民一丸で地域再生を図ろうと発足した。2代続けて島の有力者が会長を務めた。宮川さんは、自ら手を挙げて就任した。観光客を増やそうと島の名所入りのパンフレットを作成したり、ホームページを作ったりした。

 しかし、昨年8月、協議会の活動を休止した。実働メンバーが数人しかおらず、漁との兼ね合いも難しく「限界を感じた」という。

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 そこに、助っ人が現れる。島で育ちながら、地震を機に幼い子4人を抱えて福岡市市街地に転居した漁師、森田武常さん(47)だ。

 森田さんは、転居後も玄界島の漁協に所属して「通い漁師」をする一方、市中央区に水産加工会社を設立した。漁から加工、販売まで「漁業の6次産業化」を目指している。

 協議会の活動休止から1カ月後、森田さんが宮川さんに声を掛けてきた。

 玄界灘に漁に出る腕利きの若手漁師に呼び掛け、「玄界灘漁師会」を結成するのだという。メンバーは森田さんの加工会社の敷地で開かれる朝市で、自分たちが取った魚を消費者に直接、売る。漁師と消費者が「顔の見える関係」を築き、これまでにない鮮魚の販売を実践する狙いだった。

 島からは宮川さんを含む10人が加わり、会には今、佐賀や山口の漁師を含めて約30人が集う。小さな一歩だが、確かな一歩だ。

 「漁業を立て直せれば、島には活気が戻る。生まれ育った島、地震でお世話になった人たちに恩返しをしたい」と森田さんは言う。

 「きょうは、アラカブが入っとるよ」

 しけで魚が少なかった7日の朝市でも、森田さんは声を張り上げた。

=2015/03/21付 西日本新聞朝刊=

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