【平和教育を考える】父が残した戦災証言 未来への伝言 学び直す

西日本新聞

父の空襲体験も採録されている証言集。爆弾を投下した米軍パイロットの証言も掲載されている 拡大

父の空襲体験も採録されている証言集。爆弾を投下した米軍パイロットの証言も掲載されている

 いつ、どんな場面だったか。4年前に他界した父から、帰省した折、分厚い冊子を手渡された。

 表紙には「呉戦災 あれから60年」。広島県呉市の市民グループ「呉戦災を記録する会」が戦後60年の節目に、証言を公募し、まとめた。終戦時、旧制中学の学生として、呉市内で暮らしていた父の寄稿文も掲載されている。

 戦艦大和が建造された旧日本海軍基地の呉市が初めて空襲を受けたのは1945年3月19日午前7時20分ごろ。福岡大空襲(福岡市)の3カ月前だった。

 〈見る見る青空は、高射砲のさく裂する赤、黄、茶、白、黒色の煙に覆われ、絵の具をぶつけたようになった〉(発射砲や弾着高度識別のためとみられる)

 〈真っ白い水柱が艦船を包む。水柱が消えた後には、傾いた艦船の姿だけが残っていた。ふと頭をよぎったのは真珠湾攻撃の様子である。それと全く同じ光景が今、自分の前で展開されているのである〉(防空壕(ごう)から首を出してみた記憶)

 そして空母「加賀」の航海長だった叔父(ミッドウェー海戦で戦死)の言葉を思い起こしたという。「もし、呉が爆撃を受けるようなことがあったら、日本は戦争に負ける」

 ☆ ☆ 

 その父に会いたいと、やがて毎日新聞の記者が大阪本社から訪ねてきた。2008年のちょうど今ごろ。私と同じ編集委員(専門記者)の広岩近広さん。「平和をたずねて」というタイトルで、前年から長期連載を始めていた。

 父が残した記事の切り抜きを見ると、「軍港都市の悲傷」という連載タイトルで、呉に照準を合わせ、リポートしていた。父はその初回に登場する。九州でいえば、長崎県佐世保市の戦災証言を訪ね歩き、平和を考えるシリーズだ。

 何だか変な風景である。伝えたい、という思いで冊子を託された息子は「ふーん」で終わり、その冊子を読んだ他社の記者は、父の自宅(広島県福山市)にまで足を運び、じっくり話を聞き、記事にしている。

 あれから10年、本紙戦後70年企画「証言をつなぐ」で、私はいま、広岩さんと同じような取材を続ける。

 ☆ ☆ 

 あらためて父の証言を読み返した。

 〈勤労動員に駆り出され、帰還した艦船のこげた塗装をはがしていると、水兵が言った。「それは飛び散った人間の肉だ」〉

 〈空襲後、人員点呼が始まったが、人数がそろわない。その中に、親友の相馬君がいた。先生の指示で自宅に向かい、その死を報告すると、お母さんは「皆さんは、無事で良かったですね」。胸に刺さった〉

 〈戦後は進駐軍の大佐の官舎で、ベッド清掃などに当たった。英語の筆談でやりとりした。数年後、彼の住所に手紙を送った。返ってきた手紙で、朝鮮戦争で戦死したことを知った。彼には、私と同年齢の息子がいた〉

 そして、父は最後にこうつづる。〈攻撃する方も、攻撃を受ける方も命を懸ける戦争。そこには「むなしい死」だけが残される。戦争の記録も悲劇の回想だけでなく、その中に「平和の手段を発見する記録」でありたいと思う〉

 被害者から加害者へ、そしてまた被害者へ。相手の側に立てば、逆の連鎖になる。それが戦争なのだ。そして、証言記録は「終わり」ではなく、新たな学びの「始まり」と捉えるべきだ。それが父の未来への伝言でもあったのだろう。

 どこかで眠っている戦後50年、60年の証言記録。そこからの学び直しも求められている。


=2015/05/26付 西日本新聞朝刊=

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