博多ロック編<247>2年6カ月と20日の戦い

西日本新聞

「80’sファクトリー」の最後を飾る「モッズ」=「ブルージャグ」より 拡大

「80’sファクトリー」の最後を飾る「モッズ」=「ブルージャグ」より

 1982年3月31日、福岡市中央区の親不孝通り(現・親富孝通り)のライブハウス「80’sファクトリー」は「モッズ」のライブをもってさよならを告げた。

 1970年代の福岡の音楽シーンを引率したライブハウス「照和」の閉店と入れ替わるように、79年8月10日、「80’sファクトリー」は本格的なライブハウスとしてさっそうと登場した。まさに「80年代をつくる工場」として数多くのミュージシャンがステージに上がった。地元の音楽雑誌「ブルージャグ」は次のように「最後の日」をリポートしている。

 「モッズがステージから降り、アンコールが鳴り始めた時、“終わりにむかっている”というやりきれない思いにかられた。数分ののち、再び現れた…モッズよ、やめないでくれ。演奏をやめないでくれ。誰もがそう願った」

 「モッズ」は店のオープンステージも飾り、ここを主戦場にしてプロデビューした代表格のロックバンドだった。ファイナルステージにふさわしく、500人のファンが詰めかけた。あまりの熱狂に店内は酸欠状態になった。

 「ブルージャグ」には店の存続を求める1070人の署名が寄せられたことをみても、閉店に対してのファンの深い悲しみと怒りが伝わってくる。

 フアンだけではない。ロックバンド「ヒートウェイブ」の山口洋は店の規則「高校生禁止」から解放される前日に不運にも店が終わった。ここのステージに立つことが夢だった。

 「あの時の悲しい気持ちはなんと表現していいかわからない」

  ×   ×

 店の経営者は居酒屋、パブチェーン「てっしー村」の溝上徹思で、現場の責任者である店長は伊藤エミだった。閉店は「赤字」というのが最大の理由だった。伊藤にとっては「ある程度の赤字は覚悟して音楽などの表現の場の創設というのが大義」という認識だった。経営と現場の葛藤だった。

 伊藤は最後の日、「終わった」というどこか乾いた感情だった。ただ、発表の場が失われることについて「アマチュアの人へ罪の意識は感じました」と話す。

伊藤が言うようにこの店は九州全体のアマチュアの登竜門だった。九州だけでなく、東京のバンドにとってもライブができる大きなハコでもあった。伊藤は言う。

 「短い期間でしたが、濃密な時間でした。ようやく全国的に知られるようになり、これから、というときでした」

 「80年代をつくる工場」は80年代の最後まで届かずに消えた。2年6カ月と20日間の戦い。博多ロックをつくった事実は消えることはない。

 (田代俊一郎)


=2015/06/01付 西日本新聞夕刊=

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