博多ロック編<249>拠点としてのライブハウス

西日本新聞

博多ロックの殿堂だった「80’sファクトリー」(一階部分) 拡大

博多ロックの殿堂だった「80’sファクトリー」(一階部分)

 福岡市のライブハウス「80’sファクトリー」は1982年に店を閉じた。店長だった伊藤エミは「本格的なライブハウスはここしかなかった」と言うように当時、いかにライブができる場というものが成立していなかったかがわかる。

 大きな波を起こす運動には必ず場=拠点がある。地域の音楽盛衰史も言い換えれば発表、表現の場を提供していたライブハウスの歴史といっても過言ではない。

 現在、福岡にはライブハウス、ライブバーなどは百近い店がある。人口比にすれば東京に匹敵するような音楽都市に成長している。ミュージシャンにとってこうした状況は恵まれた環境といえる。福岡の音楽都市への進化には70年代、80年代のライブハウスが礎にある。

 大きなくくりで言えば、福岡の戦後ライブハウス史は進駐軍キャンプ、ダンスホール、キャバレーなどでスタートした。ただ、こうしたハコは飲食、娯楽のために集まった酔客のための演奏であった。純粋なライブハウスとの違いを言葉で表せば「聞く」と「聴く」の違いだ。「聞く」は受動のBGMであり、「聴く」という行為は客側の主体的な意志、選択が入る。

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 バンドが自分たちの世界をストレートに「聴かせる」ライブハウスは、福岡では70年代に入って登場した「照和」と「ぱわぁはうす」である。

 「照和」の特徴は経営者が現場に口を出さず、出演者が企画、構成するミュージシャンによる自主運営組織だった。チューリップ、甲斐バンド、海援隊、長渕剛などが巣立ち「照和伝説」と呼ばれている。

 大ざっぱに分ければ「照和」はフォーク系で、ロック系の拠点が「ぱわぁはうす」だった。「サンハウス」や山部善次郎などが育っていった場所だ。鮎川誠は当時を振り返って「早起きロック」という言葉を使った。店の鍵を渡され、空いている時間帯に朝早くから練習できた。それは「80’sファクトリー」の「モッズ」も同じで、渡された鍵で自由に練習ができた。北里晃一は「ここで多くの曲ができた」と語っている。ライブハウス、そして店長の音楽への理解がロッカーたちの旅立ちを強力にサポートした。

 「ぱわぁはうす」の後の「ダークサイドムーン」と「フルノイズ」や、「多夢」と「ロッカーズ」の関係も同じ様な図式だ。

 「サンハウス」の柴山俊之は「ぱわぁはうす」には「足を向けて寝られない」と語った。「ぱわぁはうす」の所にミュージシャンそれぞれのライブハウスを置き換えることができる。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2015/06/15付 西日本新聞夕刊=

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