【自由帳】山本作兵衛と戦争 息子の戦死とヤマの記録と

西日本新聞

福岡市博物館で26日まで開かれている原画展「山本作兵衛の世界」 拡大

福岡市博物館で26日まで開かれている原画展「山本作兵衛の世界」

 あの人にとって戦争とは何だったのだろう。折に触れ、考えさせられる人たちがいる。

 福岡県田川市出身の炭鉱記録絵師、故山本作兵衛さんもその一人だ。ヤマ(炭鉱)の労働や暮らしを活写した記録画や日記計697点が2011年、日本初の世界記憶遺産に登録されたことで知られる。

 太平洋戦争が終わるまで3カ月のころ、作兵衛は長男光さんを亡くした。享年23。光さんは旧日本海軍の工作兵として、軍艦羽黒に乗艦。1945年5月16日、マラッカ海峡で英艦船から集中砲火を浴び、戦死したとされる。

 作兵衛は戦前から、中小炭鉱で働き、戦中は遠縁が経営する位登(いと)炭鉱(田川市)に勤務した。だが、戦後間もなく石油へのエネルギー転換の波が押し寄せ、中小の位登炭鉱は55年に閉山。解雇された作兵衛は57年から夜警宿直員(16時間勤務)として働き始める。その夜警の合間、墨で「記録絵」を描くようになった。還暦を過ぎてからだった。

 「ヤマは消えゆく、筑豊五百二十四のボタ山は残る。やがて私も余白は少ない。孫たちにヤマの生活やヤマの作業や人情を書き残しておこうと思いたった」(自伝より)

 作兵衛の絵に早くからひかれ、親交があった画家の菊畑茂久馬さんは「あれは、(作兵衛と)光さんとの対話ではなかったか」。宿直室で始まった創作の風景をそう考える。

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 原画展が開催されている福岡市博物館に向かった。

 〈43年6月24日、奉公炭の登場〉。会場には、そんな記録画があった。

 通常の採掘炭とは別に、すべての作業員が昇坑時、1キロ以上の石炭を拾って上がることを義務づける発令があったという。作兵衛は記す。「如何(いか)に日本精神涵養(かんよう)のためとはいえ、矛盾の極でもあった」

 展示作品以外にもこんな記述がある。

 「戦争ハ愈々(いよいよ)酣(さかん)トナリ、ヤマハ石炭増産ニ大童(おおわらわ)。精鋭鉱夫ハ次々ト応召ニナリ、老朽坑夫ノ上食糧難、ソレデモ皆ヨク必勝ヲ期シテ頑張ッテイタ。ガ…、(中略)作業能率ハゼロニ向イツツアッタ」(43年ごろ)

 石炭を増産しようにも、運搬用の炭車も若手労働力も不足。坑内労働者たちは戦争話、世間話から猥談(わいだん)に花を咲かせたという。

 「(44年末から)B29(米爆撃機)の空襲が毎晩の如く続き、坑外のキカイは停止、配函(出炭作業)は午前二時頃になる。(中略)たれ(誰)を見ても栄養不良で青顔痩躯(そうく)、泥水に酔うた鮒(フナ)の様に…」

 戦時史料にも、教科書にも載っていない、戦時下のヤマの姿が記されている。

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 作兵衛の足跡をたどるDVD〈坑道の記憶〉には、画集の裏表紙につづられた一文が紹介されている。

 「日本人であらず共、戦争、人殺し合い残酷 無慙(ざん)を嫌うは人情ではあるまいか-。だが地球の上に 軍人あり武器が ある以上絶対 戦争、人殺しが起らないと予言ができませうか 文明を誇る先進国ほど原爆実験に大童ではありませんか-。かかー」

 炭鉱労働者たちが歌った「ゴットン節」。会場では、作兵衛の歌声も流れていた。それは哀感を帯びた子守歌のようでもあり、静かな反戦歌にも聞こえた。

 遠い戦争を思い描くことは容易ではない。だが、あの時代を人々はどう生きたか。一人の人間にスポットを当て、あれこれ想像してみると、歴史は現実感を増す。日清、日露、日中、太平洋戦争の時代を生きた作兵衛。戦争という視点から、記録画をたどると、もう一つの物語が浮かぶ。

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【おことわり】「田川市出身」とあるのは「田川市で活動した」でした。


=2015/07/21付 西日本新聞朝刊=

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