15分早ければ死んでいた

西日本新聞

福岡県春日市 森元哲郎さん(87)

 広島で原爆の閃光(せんこう)と爆風を浴びながらも、15分の差で命を取り留めました。投下があと15分早ければ広島駅構内で、30分早ければその前の路面電車の中で私は死んでいたでしょう。

 〈熊本県生まれ。1945年7月に17歳で当時の広島高等師範学校に入った。入学間もない8月6日早朝。学徒動員で広島市中心部から路面電車と旧国鉄を乗り継いで郊外の兵器工場に向かった。原爆投下は、工場に到着した直後だった〉

 工場の3階にいた時、オレンジ色の光に包まれ、爆風を浴びました。しばらく机の下に隠れ、外に出て市内に目をやると、入道雲のような黒い雲がもくもくとわき上がり、キノコのようでした。敵の新型爆弾だと直感しました。

 〈天皇のご真影を心配し、同級生と市内に歩いて向かった〉

 国の大事に殉ずるは我ら学徒の面目ぞ-。「ああ紅の血は燃ゆる」を歌いながら行進しました。日本は勝つと信じていたのです。

 ところが市内に近づくにつれ、誰ともなく歌声が途切れました。あちこちに鉄枠だけの電車が残され、中は黒こげの乗客の死体の山でした。焼けただれた体で「水、水」と求める声、防火槽には死体がプカプカ浮いていました。地獄絵図そのものです。初めて戦争に疑問を覚えました。路上で野宿した翌朝、遮る物が何もない壊滅した街が目の前に広がっていました。

 〈3日後に出発し、熊本県の実家に帰省。46年1月、広島県に戻って教員課程を学び、福岡県立高校の教師になった〉

 妻や子どもにさえ、原爆の話はしませんでした。ケロイドで苦しむ人も多いのに自分は無傷で生き残り、申し訳ない。とても話す気になれなかった。被爆者健康手帳の申請もしていません。ただ8月6日だけは、投下翌年から一度も黙とうを欠かしてません。71歳から85歳までは、般若心経を書き犠牲者の霊を慰めました。

 〈米寿の今年、体験を原稿用紙8枚につづった〉

 記憶だけを頼りに書きましたが、においから味まで鮮烈に覚えています。子ども3人と孫7人に恵まれ、もうすぐひ孫も生まれます。私も体がずいぶん弱ってきました。安保法制の問題など今の時代の動きから、原爆の悲惨さを知らせた方がいいと考えました。同じ地球上に生きながら、人間と人間はどうして愚かな戦争をするのでしょう。

=2015/08/05付 西日本新聞朝刊=

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