頭のケロイド、もう隠さない

西日本新聞

福岡県大牟田市 藤田浩さん(70)

 このままじゃ、いかんばい。人として。もう一人の自分からそう言われている気がした。

 〈1994年8月15日、東京であった全国戦没者追悼式に、福岡県原爆被爆者団体協議会(福岡県被団協)の代表として初めて出席。式典を終え、宿舎で遺族らと話し込むうち、そんな心境になった〉

 「被爆のこと、平和について伝えることが、あなたの宿命だ」。そんな言葉が、私を奮い立たせてくれた。心の中に「被爆者」というものはずっとあった。でも、おびえるように隠してきましたからね。こんな生き方でいいのかと。自宅がある大牟田(福岡県)に戻ってから1週間後、理髪店でばっさり丸刈りにしてもらった。

 〈生後約1カ月、広島市で被爆。爆心地から1・5キロ離れた自宅の窓辺で寝かされていた。頭に大やけどを負い、右側頭部にケロイドが残った。学徒動員中だった姉は爆死。戦後、生き残った一家5人で郷里の熊本県で暮らし始めた〉

 小学校では当時、みんな丸刈りだったが、私は許可を得て長髪だった。同級生からは「ピカドン」「はげ」と、からかわれた。頭のケロイドは心の傷でもあった。自分が嫌で、中学時代は自殺も考えた。

 〈「帽子で頭を隠せる仕事に」と、旧国鉄に就職。妻には新婚旅行で被爆を打ち明けた。やがて2人の子どもに恵まれたが、言い出せずにいた。そんな折、あの言葉に背中を押された〉

 丸刈りにして自宅に戻ったのは夕方。私なりに語った。中学1年だった娘も、小学4年だった息子も目を丸くしてね。信じられない様子だった。「お父さんと一緒に歩きたくなか」「学校に来るなら、カツラにせんね」。子どもたちは、私以上につらかったと思う。

 その中学生の娘が、やがて平和作文コンクールで私の話をつづり、入賞した。乗り越えてくれたんだと思った。あれから私も、集会や平和行進に参加し、学校や公民館で被爆体験を語るようになった。

 〈2013年、福岡県被団協の会長に就任。今年4~5月、米国であった核拡散防止条約(NPT)再検討会議に初めて参加し、被爆体験を語った〉

 海外に行ったのは初めて。一番驚いたのは、広島、長崎への原爆投下の事実さえ知らない人が少なくなかったことだった。

 国連本部のロビーばかりでなく、現地の小中高校でも人生を語った。「この頭を見てください。だてにはげているわけではありません」って、いつも通りにね。保護者の中には、泣きながら聞いてくれている人もいた。「よくぞ生きてきた」とね。

 子どもたちを招き、頭を実際にさわってもらった。戦争に巻き込まれると、こぎゃんなっとぞ。こんなに悲しい傷痕は、もう私一人でたくさんだと。そう伝えたかった。

 〈NPT会議で日本は、世界のリーダーの広島、長崎両市への訪問を求めたが、最終文書を採択できず、決裂状態で閉幕。核軍縮、廃絶への道のりの険しさ、壁を見せつけられもした〉

 私は、子どもたちにもよく言うんです。「自分が窮地に立ったときほど、逆(相手)の立場になって考えろ。思慮深く生きるためにも」って。国同士の関係の前に、人間同士のそんな関係が求められているように思える。

 〈帰国後、久留米大学病院(福岡県久留米市)で左脚の膝下を切断する手術を受け、現在も入院、リハビリに励む〉

 だれだって病気になる。ケ・セラ・セラ(なるようになるさ)ですよ。

 それにしても、痛みを人に伝える、分かり合うって難しいですよね。私たちの心身の痛みや思いを、被爆2世、3世にどう伝えるか。そして、彼らが活動をどう受け継いでくれるか。難しい時代に入っている。

 戦後70年、日本の防衛政策を大転換する安全保障関連法案をめぐる国会審議を、ベッドから見ながら思うんです。日本は今どこに立ち、どこに向かっているんだろうと。何だか「平和」って言葉が軽く、美しくなりすぎているような気がしてね。

=2015/08/05付 西日本新聞朝刊=

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