がん、孫の死・・・後遺症におびえ

西日本新聞

熊本市東区 朝長民子さん(86)

 〈広島市の看護婦養成所で学んでいた16歳の時、爆心地近くで被爆した。終戦後は古里の宮崎県都城市で保健師として勤務。その後、自衛隊の看護師になり、長崎県出身の夫と職場結婚した〉

 被爆したので結婚しないつもりでしたが、夫が「僕も被爆者です」って。お互い親戚に隠すこともありませんでした。長男を妊娠した時のつわりがひどく、生まれるまで不安でたまりませんでしたが、無事に誕生。その後は、子育てや仕事で忙しく、原爆について考えることはありませんでした。

 〈定年後、勤務が長かった熊本県で暮らした。2人の息子が成人し、平穏な生活を送っていた1993年、夫をがんで亡くした。その12年後、自身も耳にがんが見つかった〉

 養成所の同級生には、がんで死んだ人が多かったんです。内臓を三つ摘出した友人は、「私のおなかは空っぽよ」って。同窓会で胸のしこりを訴えた友人は、その翌年亡くなりました。

 〈事有るごとに被爆の影響を感じるようになっていた2008年、中学に入学したばかりの孫娘に脳腫瘍が見つかった〉

 私の主治医は「被爆とは関係ない。心配ないですよ」と言った。でも慰めにしか聞こえなかった。誰も関係がないと証明できないんです。2世への影響はある程度分かっていても、3世のことは分からない。「被爆者同士だから」と結婚したのは安易だったのか、と自分を責めました。

 〈数十年を経て、「あの時」の体験がよみがえった。実習中の病院で廊下から薄暗い洗濯室に足を踏み入れた時だった〉

 背後に強い光を感じ、振り向いた瞬間、吹き飛ばされました。気付くと2階建ての宿舎はぺしゃんこ。屋根板の間からはい出した婦長さんを見てわれに返りました。「苦しいー、死ぬるー」。「お父さん助けて」。がれきから首を出して叫ぶ人、喉にガラス片が刺さって声が出ない人。引っ張り出した時、既に冷たくなっていた友人もいました。

 病院には市民が押しよせました。黒焦げになって皮膚をぶら下げた人がぞろぞろ歩いてきて、玄関でバタバタと力尽きました。

 4、5日たった頃です。朝の身支度のとき、同室の子の髪が、束ねたままバサッと落ちました。泣きそうな顔で「うわーっ」って叫び声を上げた彼女は、戦後学校に戻ってこなかった。

 〈孫娘も抗がん剤の副作用で髪が抜けた。それでも写真を撮るときには笑顔でピースサインをしていたが、中2を目前に短い生涯を閉じた〉

 きゅっと上がった目尻が私に似た、活発な子だった。あの子が2歳の時、母親が入院したので1カ月同居して子守をしたんです。「お外に行こうか」と声をかけると、すぐに帽子をかぶってはしゃいでいた。その面影と病にむしばまれていった姿を重ね合わせると、やるせなかった。

 落ち着かず、眠れない日が続きました。目を閉じると、そのまま闇の中に引きずり込まれてしまいそうな気がしました。悲しみや不安を共有できる夫はもういませんでした。

 〈古里に行く高速バスに飛び乗った。森を歩き、きょうだいや親戚と一緒に過ごすうち、ようやく自分を取り戻した〉

 それでも、時々思い出すたびに胸が痛むんです。気晴らしに草むしりしたり、うろうろしたり。なぜ私はこんなにうつろなのか-。

 〈被爆者団体と関わるようになり、語り部活動をしている〉

 どんなに言葉を尽くしても伝わらないかもしれない。いくら想像してもしきれないくらいの出来事だったんですから。だけど何か心に残るだろうと、いつかそれを思い出す時がくるかもしれないと思っています。だから一人でも多くの人に伝えたい。それが私の務めだから。

=2015/08/05付 西日本新聞朝刊=

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