被爆者、風化に抗い 長崎、広島県外にも5.2万人

西日本新聞

 終戦から70年。戦争が遠い昔話になろうとしている今、どれほどの人が広島、長崎両市の原爆について知っているだろう。核廃絶の願いを世界に発信してきた被爆地の声は、世界のどのぐらいの国・地域に届いているだろうか。ヒロシマ、ナガサキから遠い土地で、そんな憂いを心に抱き、体験の風化に抗(あらが)って小さな声を上げてきた人々がいる。

 被爆地の外に暮らす被爆者たちだ。被爆者健康手帳を保有する国内の被爆者18万3519人(2014年度末)のうち、ほぼ3割の約5万2千人が両県外に居住。このうち広島、長崎両県に次いで全国で3番目に被爆者が多い福岡県(6970人)をはじめ佐賀、熊本、大分、宮崎、鹿児島の九州6県に約1万1千人がいる。二つの被爆地に近い九州には、こんなにも多くの被爆者が暮らしているのだ。そして海外35カ国・地域にも、戦後韓国に帰国した人や、移住した日系人など4440人(昨年3月時点)がいる。

 肉親、友人、隣人を原爆に奪われた人々は、深い悲しみの中、愛する人を救えなかった己を責めた。生き延びてもなお放射線の影響で病気がちなことに苦しみ、子や孫に影響しないかと不安にさいなまれた。被爆地外に住む被爆者は、理解し合える仲間もいなく、さらに深い苦悩を味わってきた。そしてマスコミも含めた周囲は、「原爆=被爆地」と視点を固定化させ、被爆地以外の被爆者に関心を持たずに過ごしてきた。そんなふうに原爆を被爆地だけの話としてとどめてきたことが、被爆者たちの平和への訴えを国内や世界に広げることを妨げてきたのかもしれない。

 長崎市で被爆し、戦後を福岡県柳川市で過ごした同県原爆被害者団体協議会副会長の山田守さん(83)は、「放射能がうつる」と周りに言われる度に説明を繰り返した。孤立することもあり、口をつぐむ人は少なくなかった。だが、山田さんは父を原爆で失い、戦後は定時制高校に通いながら家族を支えた体験から「戦争ほど無駄なものはない」と声を振り絞ってきた。

 福岡被爆二世の会会長、南嘉久さん(68)=北九州市戸畑区=は今、「心の被爆者」という思想を広げたいと思っている。

 それは広島に通い、被爆者の手記を聖書のように読んだという故井上ひさしさんが提唱した言葉だ。地獄図以上の状況の中、悲惨さだけでなく、人々の助け合い、思いやりがあったことを感じ取り、その人間的な輝きに寄り添い、被爆体験を「心の被爆者」として共有しようと訴えたのだ。

 南さんの父も長崎で被爆し、4人の子どもを失った。父の死後、見つけたドキュメント番組の記録から、その体験を知り、悲しみや、子どもたちへの慈しみといった父の心を共有することができた。

 被爆を体験していなくても、心の被爆者にはなれる。それは、被爆地以外の土地で、隣人である被爆者に気づかずに過ごしている多くの人々にも通じることなのだ。

 全国の被爆者の平均年齢は80・13歳(14年度末)と初めて80歳を超えた。14年度には過去最多の9200人が亡くなり、被爆体験の風化は時間の問題となっている。

 核兵器が依然として世界に存在するだけでなく、東日本大震災に伴って起きた東京電力福島第1原発の事故は、私たちが核と無縁ではいられない事実を突きつけた。誰もが核の時代の当事者となりうる現代、私たちはどう考え、行動すればいいのか。被爆地の外で暮らしてきた九州各地の被爆者の声に、「心の被爆者」として耳を傾けてみよう。

       ◇            ◇

 原子爆弾 桁違いに強力な爆発力を持ち、熱線、爆風、放射線の三つのエネルギーが発生することが通常兵器との最大の違い。

 1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが人類史上初めてウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を広島市に投下。市中心部の広島県産業奨励館(現原爆ドーム)付近の上空600メートルでさく裂した。熱線で爆心地の地表温度は3000~4000度に達し、爆風や火災で町は壊滅した。投下時、市内には軍関係者を含む35万人前後がいたとされ、同年末までに約14万人が死亡した。

 3日後の8月9日午前11時2分には、米軍のB29ボックスカーが長崎市にプルトニウム型原爆「ファットマン」を投下。長崎市松山町の上空約500メートルで爆発した。爆発1秒後に直径280メートルまで膨張した火球が強烈な熱線を発し、爆発から約8分30秒後には原子雲が上空9000メートルに達した。同年末までの推計死者数は当時の市人口の約3分の1に当たる約7万4000人。

=2015/08/05付 西日本新聞朝刊=

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