民謡編<256>筑豊の山に向かって

西日本新聞

18歳ごろの赤坂小梅(『女の花道』より) 拡大

18歳ごろの赤坂小梅(『女の花道』より)

 福岡県・田川出身の芸者歌手、赤坂小梅は1951年にスタートしたNHKの紅白歌合戦には初回から出場している。このときに歌った曲は「三池炭坑節」だった。

 〈月が出た出た 月が出た ヨイヨイ 三池炭坑の上に出た〉

 小梅は紅白歌合戦には4回出場し、曲はすべて九州の民謡である。小梅は地域共同体だけの民謡をメディアに乗せることで全国的に流行させた九州を代表する民謡歌手だった。

   ×  ×

 小梅は1906(明治39)年、9人兄妹の末っ子として生まれた。本名は向山こうめ。

 「大(おお)らかな性質と酒の強さ、この二点を父からうけついだ」

 小梅は自伝『女の花道』にこう記している。母は産後10日目に死去し、母の顔を知らずに育った。父は農家の小地主だったが、これといった定職を持たない道楽者だった。小梅は嫁いでいた長姉と髪結いの次姉に育てられた。髪結い店の隣が芸者の検番だった。

 「三味線の音、鼓、義太夫、清元、長唄、小唄…が聞こえてくると、少女の私はいてもたってもいられなくなった」

 次姉は「あそこに行ってはいけません」とたしなめた。小梅はいつも「おしっこに行く」とウソを言ってその場を外し、検番をのぞいた。次姉が義太夫の出稽古を受けていたので、一緒に習うことになった。

 「覚えが早く、姉が十日かかるところを二日であげてしまうので姉は目を白黒…」

 小学4年の春、山の麓で空に向かって歌っているとき、炭鉱マンがトロッコを押して、通りかかった。

 「大人顔負けの節廻(まわ)し、美声に思わずトロッコを止めて、私のウタに聞き惚(ほ)れていた」

 その男から浄瑠璃の流派、新内節のリクエストがあった。

 〈縁でこそあれ末かけて、約束かため身をかため〉

 「うめえな、たまげたばい、明日もこの時間に」

 この野外ステージには日々、炭鉱マンの聴き手は増えた。ご祝儀まで貰(もら)った。最初の芸の報酬だった。

 小学校には行かなくなったが、歌の稽古事は欠かさず、山に向かって声を放った。16歳のとき、周囲の反対を押し切って芸者の道に入った。北九州・小倉の旭検番で「梅若」と名乗った。小倉生まれの作家、松本清張の『半生の記』にはこうある。

 「(紙屋の)主人が梅若という唄(うた)のうまい若い妓(こ)に身代を入れあげたという噂(うわさ)であった。梅若はのちの赤坂小梅である」

 ある日、招かれた座敷が小梅の人生を大きく変えることになる。 (田代俊一郎)

 ※ロック編は前回で終了。今回から民謡編がスタートします。

=2015/08/17付 西日本新聞夕刊=

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