民謡編<257>運命を決めた座敷

西日本新聞

 16歳で北九州・小倉の芸者になった赤坂小梅に大きな転機が訪れるのは1929(昭和4)年のことだ。童謡、流行歌の作詞家の野口雨情や作曲家の中山晋平、藤井清水たちが地元に招待されて料亭「つだくら」で遊んだ。この座敷に姿を見せたのが小梅である。

 小梅は自伝『女の花道』の中で「小倉の花柳界で最も美声の芸者ということで私は呼ばれた」と語っている。

 異説がある。小梅は間違ってその座敷に入った。帰ろうとすると野口たちから「せっかくだから1曲歌ってごらん」と請われた-という説である。

 さらに「狙って入ったのではないか」と推測するのはドキュメンタリー映画『小梅姐さん』(2007年)を監督した山本眸古(ひこ)だ。当時、著名人である野口たちの小倉来訪は地元花柳界に知れ渡っていたはずだ。小梅は偶然ではなく自分をアピールするための確信犯として座敷に乗り込んだ。説はどうあれ、野口たちは絶賛した。

 「いい声だ。たんなる美声じゃない。腹から出る声だ」

 「こりゃア、ヒョッとすると、ヒョッとするね」

 特に藤井は「一世一代、はじめてさがしあてた歌手だ」と惚(ほ)れ込んだ。藤井の推薦によって大阪ビクターの録音所でレコードを初めて吹き込んだ。それが新民謡「小倉節」(作詞・野口雨情、作曲・藤井清水)などである。

 〈小倉西へ行きゃ 筑前博多 思い出したら ソコヤートサ 又(また)おいで〉

 ×   ×

 民謡について民俗学者の柳田国男は「民謡は作者の無い歌、捜しても作者のわかる筈(はず)の無い歌」と記している。読み人知らずの土着性の強い伝承歌という定義である。新民謡は「小倉節」に見られるように作詞、作曲者が明記されている。

 明治以降、急激な西洋傾斜に対し、日本文化の見直しの一つとして大正から昭和にかけて新民謡運動は起こった。民謡研究家の竹内勉は著書『民謡』の中で新民謡について次のように述べている。

 「地方では、町を売り出すために、花柳界は客寄せのために、それぞれ『御(ご)当地ソング』という名のコマーシャルソングを作るようになった」

 「地方に住む大衆が歌えて、田園的で、花柳界でも使える日本調という条件を伴った唄(うた)は日本列島の町から村から次々に生まれていった…。『大正デモクラシー』の生み出した『民衆歌謡』だった」

 「小倉節」もその流れだ。歌の上手な芸者。小梅は時代が欲した歌手だった。ただ、小梅は新民謡だけでなく、柳田が言う民謡-伝承歌を求めて全国を旅することになる。
 (田代俊一郎)


=2015/08/24付 西日本新聞夕刊=

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