【ふるさとの守り人】<1>廃集落よ よみがえれ

西日本新聞

廃集落となった大分市内の山頂の一画に、資料館などをつくった坂本裕明さん 拡大

廃集落となった大分市内の山頂の一画に、資料館などをつくった坂本裕明さん

 カーン、と明るい金属音が山に広がる。仏壇を拝むように、坂本裕明さん(64)は「先祖 感謝の鐘」と描いた鐘を鳴らした。

 大分市中心部から車で約30分。山頂に切り開かれた運動場ほどのこの一画は坂本さんのふるさとだった。「過去形」なのは、45年前に集落そのものが消えたからだ。

 辻集落と呼ばれ、坂本さんが子どものころは8世帯約60人が暮らしていたが1970年、生活の不便を理由に集団移転した。

 坂本さんは9年前、この集落の再生を本格的に始めた。自宅がある別の集落から車で5分。週5日ほど通い、道を覆う雑草を払い、切っても切っても伸びてくる竹を切り倒す。3年前には築100年の空き家を改修し、昭和初期の生活道具を集めた歴史資料館を作った。

 田げたに糸車、いろり…。柱時計の音が響く資料館にいると、タイムスリップしたみたいだ。小学校や保育所に通う子どもを招き、「昔話みたい」と喜ぶ顔を見るのが何よりうれしい。森林保護活動として、県から年約20万円の補助金もあるが、自らも約400万円を投じた。「ふるさとのことになったら、なんか真剣になる。私、ばかかもわからんなぁ」

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 辻集落で、坂本さんは6人家族に育った。飲み水は数百メートル離れた泉でくみ、ためた雨水で風呂を炊いた。竹を焼いた炭とタケノコがわずかな収入源の貧しい暮らしだったが、「子どものころは楽しかったんよ」。近所の子たちと樹齢500年のムクノキに登り、ヤブツバキに群がるメジロを捕った。のどに骨を引っ掛けると近所のばあちゃんがまじないを唱えてくれた。

 ところが、市中心部の高校に通いだすと「こげな田舎に住んでる自分が恥ずかしくなった」。卒業と同時に集落を出て市中心部の会社に入社。19歳であこがれの東京に移り住んだ。その直後、集落が無人になると聞いても、特に感慨はなかった。「引っ越しも手伝わんで、とんでもない息子だ」。母親のなじりだけが耳に残った。

 東京生活は2年と続かなかった。空気の汚さに嫌気が差し、再び大分県内へ。職を転々とし、現在住む集落に豆腐店を開いたときには53歳になっていた。2年後の2006年6月、同居していた母が亡くなった。

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 まだ熱が残る台車の上に、鉄の塊が三つ、あった。坂本さんは母の火葬後、焼け残ったそれを一つ一つ袋に詰めた。これは股関節、細長いのは脚…。母はすり減った骨を人工骨で補っていた。「こんなにまでして俺を育てたんか」

 生まれ育った集落を無性に見たくなった。近いのにほとんど足を運んでいなかった。わらぶきの家は倒れ、畑は竹やぶになっていた。重い荷を背負って坂を歩く母親の背が重なった。「育ててもらった場所をほったらかしにして申し訳ない」。まもなく集落再生を始めた。

 坂本さんの熱心な活動ぶりに、周囲は半ばあきれ顔だ。大分市全体では人口が増えているのに、坂本さんが住む集落や辻集落を含む河原内地区は小学校がなくなり、バス路線もなくなり、食料品店も1軒だけになった。同級生はほとんど地元を離れた。「出て行くのが利口なのは分かってるんですよ」

 それでも、母親や集落の大人たちだけは天国でほめてくれている気がする。自分の心があるべき場所に戻っている、と思う。

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 人口減少社会を迎え、国は都市機能の集約を推進。地方でも中心部に人が集まる一方、集落は姿を消していく。日本人にとって長い間「ふるさと」だった中山間集落を守ろうとする人々を追う。


=2015/08/25付 西日本新聞朝刊=

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