民謡編<258>郷土の歌を全国区に

西日本新聞

生涯、民謡を歌った赤坂小梅=40歳ごろ(『女の花道』より) 拡大

生涯、民謡を歌った赤坂小梅=40歳ごろ(『女の花道』より)

 民謡歌手、赤坂小梅の生涯を追ったドキュメンタリー映画『小梅姐さん』(2007年、山本眸古(ひこ)監督)は小梅の生誕100年を記念して制作された。

 小梅は福岡県田川郡川崎町の出身で、1992年に85歳で死去した。映画は同町の有志が郷土の国民的歌手だった小梅の業績をたたえるために企画した。地元の福岡在住で女性ということもあり、山本監督が制作依頼を受けた。当時、山本は「ドキュメンタリーを撮りたい」とテレビ制作会社を辞め、フリーで働いていた。

 「小梅さんのことはよく知らなかったが、調べるほどに魅力的な存在になっていきました」

 映画は1年余をかけ、小梅の生前を知る周辺の人々にマイクを向けていく。生い立ちから晩年までをまとめた約80分の映像から小梅の人生が浮かび上がる。山本は小梅について「豪快できっぷがよく、歌の上手な人」と語る。その性格は川筋気質である。歌謡史の中の小梅の位置については「歌謡界に民謡というジャンルを定着させた」と言う。

   ×   ×

 小梅は1931年、25歳で上京、翌年にはコロンビアの専属になり、古賀政男作曲の歌謡曲「ほんとにそうなら」でヒットを飛ばして一躍、スター歌手に仲間入りする。ただ、小唄風な歌謡曲よりも小梅の神髄は民謡にあった。「炭坑節」「黒田節」といった地元の民謡を初めてレコーディングし、地域の歌を全国区に押し上げた。

 山本は「小梅さんは全国の民謡を訪ね歩いた」と言う。地方巡業の時には地元の民謡を直に聴いた。正調を基本にはしていたが、歌い手によって正調は違い、最終的には小梅流にアレンジした。そのレパートリーは沖縄を含めた九州だけでも百曲近く、全国でみれば数百曲にものぼる。民俗学者のフィールドワークにも似た民謡採譜に駆り立てたものはなにか。山本は言う。

 「民謡の底にある民衆の心ではないでしょうか。最初は自分のために歌っていたのが、民衆のために歌う、と変わっていったように思います」

 少女時代の炭鉱町での記憶、そして戦時体験‐中国戦線での慰問公演などが変化の背景にある。自伝『女の花道』でその慰問の様子をこう記している。

 「(兵士の)みなさん平和な日本にいた頃を思い出したのでしょう……涙を流してきいて下(くだ)さる方もいました」

 戦後も民謡を歌い続け、75歳で引退した。晩年は千葉県館山市に移り住み、時折、近くの保養センターで小梅節を聴かせた。生涯、民謡に生きた歌手だった。

 (田代俊一郎)


=2015/08/31付 西日本新聞夕刊=

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