【自由帳】平和学習で語った戦争 「家族の視点」で考えて

西日本新聞

生徒たちは、広島で被爆し、亡くなった佐々木禎子さんの物語を群読劇で発表した=8月6日、大分県日田市の東渓中 拡大

生徒たちは、広島で被爆し、亡くなった佐々木禎子さんの物語を群読劇で発表した=8月6日、大分県日田市の東渓中

 戦後70年にあたる今年の8月6日、私は大分県日田市にある東渓中学校にいた。広島市に原爆が投下されたその日。全校生徒76人と地元住民を前に、平和学習の講師として、祖父の足取りをたどった戦争取材について語った。しかし講演後に伝え聞いた感想の中には、「なぜわざわざ遠く危険なミャンマーの奥地まで行こうと思ったのか」という疑問もあった。私が伝えたかったのは、まさにその「なぜ」。東渓中のみなさんへ-。私がこの夏、伝えたかったこと。 (丹村智子)

 私の祖父は太平洋戦争中、ビルマ(現ミャンマー)にいました。26年前に亡くなるまで、戦争の話は聞いたことがありません。

 ですが、祖母の手元に日記が残っていました。茶色く変色した分厚いノート。先行きの不安や戦友を失った悲しみを吐露する一方で、国や家族を守ろうとする使命感がつづられていました。そこには私が知らない青年の祖父がいた。それはモノクロ写真の世界が、カラー映像になって動きだすような感覚でした。

 祖父がいた戦場はどのようなものだったのか。祖父がたどった道のりを、赤鉛筆で地図に落とし込んでいきました。日本から約4千キロ離れた異国へ行き、3年半もミャンマーを駆け回っていた。驚きでした。

 九州には祖父と同様、ビルマ戦線を戦った元兵士が大勢いました。生き残った体験者を訪ね、既に亡くなった元兵士が残した手記や戦記などを読みあさりました。日に日に現地へ行きたい気持ちが募りました。

 それが昨年9~10月、本紙に連載した〈祖父に導かれて〉でした。

 現地ではミャンマー人の体験談を聞くことにこだわりました。事実は一つでも、捉え方は立場や体験によって全く異なるからです。

 かつてマレーシアの大学に留学していたとき、現地の友人に「日本人は戦時中の行いについてどう思っているのか」と問われたことがあります。

 日記には祖父が戦場で人をあやめた場面もありました。殺し合いが日常の戦場。しかし当事者ではなく、そこで暮らしていた東南アジアの人々にとって、戦争は一体何だったのか。

 旧日本軍はアジア諸国を欧米の植民地支配から解放するという大義を掲げましたが、日本支配下のマレーシアは深刻な食料不足に陥った。敵国だった中国からの移民は反発分子として弾圧を受けた‐。留学を機にマレーシアの歴史を知りました。

 「現地の人々を傷つけるつもりはなかったのだと思う。でも実際はよく分からない」。私は言葉に詰まりました。返答するには、知らないことが多過ぎました。それこそが、今に残る戦争の罪だと思っています。

 スコールと強い日差しが交互に注ぐミャンマーの大地には、無数の遺品が残されていました。名前が刻まれた飯ごうや水筒、眼鏡に加え、朽ちつつある遺骨もありました。祖父が生きて帰って来たことは奇跡にしか思えませんでした。そして戦後70年、私という存在がある。

 あなたたち家族も、そんな「戦争の世紀」を生き抜いた、かけがえのない命のリレーの一人なのです。

 ミャンマーの人々は、日本の戦争のことを「もう遠い過去のこと」と言いました。ですが、それは忘れたという意味ではないと思っています。ミャンマーでは今も続く内戦や貧困など、過去を振り返る余裕もない生活を送っている人たちが大勢います。真の意味で友人となるため、二度と過ちを繰り返さないためにも、遠いようで、近いかもしれない戦争について考え続けてもらいたいのです。


=2015/09/08付 西日本新聞朝刊=

PR

PR

注目のテーマ