民謡編<260>呼子のクジラ歌(上)

西日本新聞

江戸時代の呼子沖での捕鯨絵図(部分) 拡大

江戸時代の呼子沖での捕鯨絵図(部分)

 佐賀県唐津市呼子の名物「朝市通り」の端に、「主(おも)屋」が同県の重要文化財に指定されている「鯨組主中尾家屋敷」(熊本守男館長)がある。屋敷は鯨で巨万の富を築いた「クジラ御殿」だ。一般にも開放され、クジラと呼子、クジラと中尾家の歴史を知ることができる。

 民謡の中にクジラ歌というジャンルがある。九州ではかつて沿岸捕鯨が盛んだった長崎県の五島から呼子にかけた「西海ライン」が捕鯨基地であり、クジラ歌が伝承されている。

 民謡の発生源は労働の現場にある。その目的は円滑な作業の促進と単純労働に飽きないためである。近世の捕鯨はどのような労働であったか。「鯨組」の網元だった中尾家を例にしながら見てみたい。

 「従業員は800人、多いときには千人を超えたようです」

 熊本館長は言った。中尾家が組織的な捕鯨を始めたのは1700年代に入ってのことだ。すでに捕鯨発祥地の和歌山県・太地では17世紀には組織的な捕鯨がスタートしていた、といわれる。

 「太地から捕鯨民を呼んでその方法を学んだと思います」

 もちろん、呼子沖にクジラが往来していたことを昔から地元民は知っていた。ただ、ザトウクジラは約15メートル、セミクジラは約18メートル。巨大なクジラに一人や二人で立ち向かうには無理があった。組織が必要だった。その組織が「鯨組」である。

 組織的捕鯨は「網掛け突き取り法」と呼ばれた。見張所からクジラを発見すればスピードの出る8丁櫓(ろ)の「勢子(せこ)船」が数十隻で追走し、浅瀬の2、3重の網の中に追い込み、囲む。

 「これはクジラのスピードを遅くし、深く潜らせないためです」

 最後は舟先の「波座士(はざし)」(刃刺し)が銛(もり)を打ち込んで仕留めた。命がけだった。

 漁期は回遊時期に当たる冬場をはさんだ4カ月。一番多く仕留めた年は54頭だった。

 「食用、灯明の油、そして水田の防虫用油が大きな用途でした」

 「鯨組」の従業員の多さは勢子、船大工、網大工を始め、捕鯨から解体までに至るすべての作業員を抱えていたからだ。逆に言えば捕鯨はそれだけの人員に賃金をまかなえる巨大産業だった。

 「クジラ1頭の値段は現在の価値で言えば約2500万円といわれています」

 中尾家屋敷はいわば「本社」で、商品化する現場は呼子沖の小川島だった。広大な納屋があり、クジラは人海戦術で陸揚げされ、解体された。そこで歌われたのがクジラ歌だった。

 (田代俊一郎)


=2015/09/14付 西日本新聞夕刊=

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