民謡編<286>炭坑節の語り部(下)

西日本新聞

 福岡県田川市の石炭記念公園内には筑豊のランドマークのように巨大な炭鉱遺構がそびえている。

 一つは23メートルの伊田竪坑櫓(たてこうやぐら)だ。

 〈あなた一番方 わしゃ二番方 あがりさがりで逢(あ)うばかり〉

 もう一つは45メートルの煙突だ。

 〈赤い煙突 目あてにゆけば 米のまんまがあばれ食い〉

 〈ままになるなら あの煙突に わしの思いを吐かせたい〉

 公園は旧三井田川鉱業所跡地に整備され、竪坑櫓と煙突はそのままモニュメントとして残されている。

 伊田坑など三井田川の炭鉱では1940年の最盛時には年間200万トンの石炭を産出し、作業員は約1万人という数だった。伊田坑だけでも炭坑住宅は465棟。ひと棟に4軒入っていたので、戸数で言えば1860戸。三井の巨大な企業城下町が広がっていた。

 「炭坑節の語り部」と呼ばれる原田巌(74)も父が採炭員をしていたので1860戸の中の1軒で生まれ、そして育った。

   ×    ×

 原田はこの竪坑櫓で昇降し、地下300メートルの世界で1年近く、作業をしたことがあった。

 「まさか、坑内に下がるとは思ってもみませんでした」

 炭鉱の斜陽化によって炭鉱マンの採用はなくなり、ボーリング会社の仕事を選んだ。その最初の仕事が伊田坑内でのボーリングだった。父と職種は違っても同じ地の底の労働に従事するという巡り合わせだった。

 「でも、このときの坑内経験があったから語り部としての現在があると思います」

 伊田坑に潜った後、東京本社に転勤、3年間で辞めて北九州市のセメント会社に転職した。途中、自分が生まれた炭坑住宅跡に家を構え、通勤しながら定年まで勤め上げた。

 原田が語り部としてデビューするのは定年後の、10年前のテレビ出演だ。その1年前に手伝っていた大工の仕事で屋根から落ち、頭蓋骨骨折などで生死をさまよった。この事故も常に死と隣り合わせだった坑内労働者を強く思い起こさせた。

 「落盤事故で亡くなった祖母、採炭員として生きた父。そうしたことも重なりあって炭坑節を歌い継いでいくことを決心しました」

 〈唄(うた)でやんなされ これくらいの仕事 唄は仕事のまぎれ草〉

 炭坑唄に込められた労働者たちの喜怒哀楽。まさに生活の唄だった。原田の血肉の通った歌は残された竪坑櫓や煙突よりも生々しく現場の実像を伝えている。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2016/04/18付 西日本新聞夕刊=

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