江戸の韓流 朝鮮通信使<4>行程 4000キロの旅、今も残る謎

西日本新聞

 朝鮮通信使の旅は往復約4千キロに及びます。往路の前半は長崎県の対馬と壱岐から相島(あいのしま)=福岡県新宮町=へと離島を伝い、瀬戸内海を渡る海路。後半は京都から中山道や東海道を歩く陸路でした。どの道を通り、どこに泊まるか。約45の接待所も全て幕府が決めましたが、どんな理由でルートを選んだのかは今も謎が少なくありません。

 この行程で唯一、今も「朝鮮人街道」と呼ばれる道が滋賀県にあります。琵琶湖東岸を走る中山道の迂回(うかい)路で長さは約40キロ。徳川家康はじめ3代の将軍が京都上洛(じょうらく)で通ったことから「天下支配の吉道」と言われ、参勤交代の大名は使わない将軍の「専用道」でした。

 幕府がこの道を選んだのは、通信使を優遇したからでしょうか。京都造形芸術大客員教授の仲尾宏さん(79)=日朝関係史=は「休憩に便利な近江八幡という大きな街が沿道にあり、幕府の何らかの配慮が働いたのだろう」と言います。地元には「日本を広く見せるため、わざと回り道させた」という説もあります。

 海路を巡る最大の謎は玄界灘の約8キロ沖に浮かぶ相島への寄港です。通信使一行は船6隻で、それを50隻で護送する大船団でした。他の寄港地は大きな港ばかりなのに、福岡藩はなぜ小島で接待したのでしょう。博多湾なら安全だし、600人以上の藩士を島に送る手間も省けたはずです。

 「相島歴史の会」の学芸員今村公亮さん(71)が推測する理由は「相島が天然の良港だったから」。順風が吹いたらすぐに出港し、次の目的地に最短距離で行けたと言います。一方、「豊臣秀吉の朝鮮出兵で連れ去られた捕虜の存在を隠したかった」「他藩の視察で藩内を見られたくなかった」などの理由も考えるべきだと指摘します。

 「どんな理由であれ、通信使のルートが善隣外交の平和の道であることは間違いない」。今村さんは最後に、そう付け加えました。

=2016/08/02付 西日本新聞朝刊=

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