江戸の韓流 朝鮮通信使<2>目的 安全確認とカネ求め

 苦労して朝鮮通信使をやりとりした目的は主に二つ。「安全」と「カネ」です。このうち安全を一番強く求めたのは朝鮮でした。

 朝鮮が最も恐れたのは、豊臣秀吉から2度にわたって侵攻された文禄・慶長の役(1592~93、97~98年)の再来です。14万の軍勢に首都漢城(ハンソン)まで占領され、多くの捕虜も奪われて、国は疲弊していたからです。

 新たな支配者となった徳川家康も出兵する気なのか。日本の政情を探ろうと、使者を送ります。選ばれたのが、2千人の僧兵を従えて秀吉軍と戦い、講和交渉にも関わった高僧の松雲大師(ソンウンデサ)=四溟堂(サミョンダン)=でした。

 1605年、松雲大師は京都伏見城で家康と会談。家康は「自分は役のとき江戸にいて戦に加わっていない。和を請う」と明言したとされます。実は、日本を統一したばかりの家康に朝鮮を攻める余力はなく、やはり和平を望んでいたのです。

 大師は千人以上の捕虜を連れ戻すことにも成功しました。両国は国交を回復し、2年後に通信使開始。朝鮮は将軍が代わる度に通信使を送り、幕府との友好関係を確認し合ったのです。

 韓国・釜山(プサン)市から列車で約40分。慶尚南道密陽(ミリャン)市に松雲大師をたたえる石碑があります。そこで不思議な話を聞きました。大師の功績を刻んだ黒い碑の表面を玉のような水滴が流れるのが何度も目撃されたというのです。国に一大事があると「大師のように汗をかく」と、地元では有名です。

    ◇    ◇

 カネを欲しがったのは日本側、特に対馬藩(現長崎県対馬市)でした。

 山がちで農産品が乏しい対馬にとって朝鮮交易が最大の収入源。銀や銅と引き換えに朝鮮人参や生糸を輸入して利益を得ていました。ところが、文禄・慶長の役で交易が途絶え、財政難に。交易再開のため、通信使の往来による国交回復が不可欠だったのです。

 また、対馬藩は通信使送迎の準備資金として、幕府から莫大(ばくだい)な
下賜金をもらっていました。金額は最初8万両で、後に12万両まで増額。当時の物価などから換算すると、今なら120億円の大金です。

 対馬市の国際交流担当、阿比留正臣さん(48)は「通信使は文字通り対馬の生命線だった」と言います。石川の前田家、山口の毛利家と並んで日本三大墓所に数えられる藩主の菩提(ぼだい)寺「万松(ばんしょう)院」が、その盛時を物語っています。

=2016/07/27付 西日本新聞朝刊=

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