民謡編<300>子守唄(7)

西日本新聞

 子守唄研究の扉を開いた詩人、民俗学者、松永伍一(福岡県大木町出身)の著書「日本の子守唄(うた)」(1964年刊)は衝撃的なデビュー作になった。松永は子守唄研究について「子守唄よ、蘇(よみがえ)れ」の中で次のように語っている。

 「なんとか資料はないかと国会図書館に行っても、まず、日本の子守唄というテーマの本が一冊もなかった」

 それまで子守唄について本格的な研究書はなく、空白分野だった。もちろん、全国の子守唄の歌詞などは採集、記録されていた。松永はそういった素材を元に「女の深淵(しんえん)から」「出稼ぎへの道」「庶民の笑い」「風刺という武器」「ふるさとへの慕情」など多彩なアプローチによって子守唄の背景を解剖していく。その評価について、NPO法人「日本子守唄協会」の理事長、西舘好子はこう語る。

 「民俗学的な視点で子守唄を歌謡史、民衆史の中で位置づけをした人です」

 子守唄研究のいわば「バイブル」として定着した。松永は子守唄研究が「その後の仕事のベースになった」と強調するように、松永民俗学の軸になる敗者、弱者からの視点は子守唄研究で固まったといえる。その後、「底辺の美学」「日本農民詩史」「一揆論」などの労作につながっていく。

   ×    ×

 なぜ、松永は子守唄に向かったのか。遺族に聞いても「家では仕事の話はほとんどしなかった」という。松永は母が歌う子守唄を直接には「聞いたことはない」と記している。ただ、「日本の子守唄」の中で次のように書いている。

 「文学することを許してくれた母への感謝を示すべく、『日本の子守唄』という本を書こうと決心した」

 貧農の生活の中で育ててくれ、文学者になることを理解、援助してくれた母への思いからだと強調している。母の子に対する愛情が松永の中では「子守唄」に重なった。「日本の子守唄」は松永にとっては母、ふる里への望郷子守唄ともいえるかもしれない。

 それだけではない。手つかずの領域への文学的野心もあったはずだ。また、尊敬する同じ筑後の先達、北原白秋を意識していた。「白秋先生のようになりたい」と上京する前、周辺に語っている。白秋は「日本伝承童謡集成」(全6巻)を編み、子守唄編は47年に刊行されていた。参考にしたはずだ。白秋-伍一のラインで子守唄の研究が進んだことも確かだ。

 松永の著作は現在、ほとんど絶版状態になっているが、再来年の没後10年に合わせ、地元の松永伍一文学保存会の手によって文学碑の建立計画が進められている。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2016/08/15付 西日本新聞夕刊=

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