民謡編<308>子守唄(15)
大分県佐伯市宇目の民宿「梅路」を切り盛りする米田寿美(77)が同県津久見からこの地に嫁いできたのは二十歳のころだ。長女が生まれ、子守唄(うた)を歌ってあやした。その子守唄は歌好きな津久見の母親が米田に歌い聴かせていたもので、覚えていた。
「その唄がここの『宇目の唄げんかだ』と言われた。このような山の中で生まれたのかとびっくりしました」
すでに消えかかった子守唄だった。米田は「残していきたい。記録したい」と民俗学者のように土地の古老から聞き取り調査をした。実際に子守をしていた経験を持つおばあちゃんからも話が聞けた。聞き取り調査としてはギリギリの時間だった。米田は91の歌詞を採集した。
「当時、地域の人から変な目で見られていました。この子守唄に出合って、人生が変わりましたね」
× ×
「宇目の唄げんか」は送りと返しのグループ二組に分かれて、けんかのように歌い合う対話形式になっている。子守唄では異色の歌問答、歌合戦だ。まずは送りのグループが仕掛ける。
〈あん子 面みよ 目は猿まなこ ヨイーヨイ 口はわに口えんま顔 ヨイヨーイヨ〉
返しのグループが反撃する。
〈おまえ 面みよ ぼたもち顔じゃ ヨイーヨイ きな粉つけたら尚(なお)良かろ ヨイヨーイヨ〉
こうした掛け合いが続く。歌がとぎれた方が負けだ。長く続くには即興性が要求される。米田は言う。
「どんな歌詞だろうと節さえあればよかったようです」
定番の歌詞ならグループ全員で歌うこともできるが、即興になると個人だけが歌う場合もあった。残りの子守ははやし言葉だけに参加した。
米田によれば、「宇目の子守唄」の基本は赤子の寝かせ歌だった。それが、子守女性自身の楽しみとストレス発散の歌合戦にもなった。寝かせ唄では声を落として、節をゆっくりと。歌合戦では少し節は早くなり、声も大きくなり、歌詞もエスカレートして攻撃的なものにもなっただろう。
数人ずつのグループはどのように分かれたのか。米田は話す。
「気の合う仲間同士でグループを作ったようですが、弟や妹を子守する地元のグループと、よそから来た子守奉公のグループにも分かれていました」
宇目という山村になぜ、歌合戦できるような多くの子守女性が集まったのだろうか。(この項、続く)
=敬称略
(田代俊一郎)
=2016/10/24付 西日本新聞夕刊=