民謡編<314>おてもやん(下)

西日本新聞

 JR熊本駅から歩いて10分ほどの所に小さな公園がある。「ポケットパーク」と呼ばれ、その中に「おてもやん像」が建っている。この銅像は地元の「五福ふれあいまちづくりの会」が母体になって9年前に設置した。元会長の川上靖(53)は建立の経緯について語る。

 「街のシンボル的なものを、と考えました。史実に近い形の像になっています」

 像は2体ある。座って三味線を弾いているのが「おてもやん」の作詞、作曲者といわれる永田イネ(稲)だ。その横で踊っているのはおてもやんのモデルになったといわれる富永チモ(登茂)である。

 「おてもやん」の成立を追った本「おてもやん」(小山良著)によれば、イネは慶応元(1865)年、この地で味噌醤油(みそしょうゆ)製造業の一人娘として生まれた。4歳から芸事を習い、18歳には師匠になった。料亭の下働きをしていたチモはイネの稽古場に顔をだすようになって交友が生まれた。雑談の中で、チモは彦一との結婚話を語り、それを元に「おてもやん」の歌詞が生まれた-。同書ではこの民謡の成立について「明治三三年以降」と推察している。

   ×    ×

 「おてもやん」は「熊本甚句(じんく)」とも呼ばれる。甚句とは伝統的な歌謡形式で、三味線に乗せた座敷歌が多く、「名古屋甚句」「酒田甚句」など各地にある。地元の方言を多用しているのも特徴だ。民謡、三味線の師匠である熊本市の福島竹峰は話す。

 「城下町の熊本では座敷文化が発達していましたので、甚句が流行する環境にありました。甚句には三味線の前奏があり、調子が似ているものが多いです」

 イネは女芝居一座を率いて大阪、名古屋などへ巡業していた時期がある。その巡業先で甚句に触れたことも「おてもやん」成立に影響している。

 一方で、歴史をからめた諸説もあった。「おてもやん」は肥後勤皇党の「しのび歌」との説だ。熊本の作家、郷土史家の荒木精之が提起した。おてもやんは肥後勤皇党、ご亭(てい)どんは孝明天皇の隠語で、内密に朝廷との連絡が取れた、という解釈だ。また、西南戦争時、薩摩軍につくか、政府軍につくか、優柔不断な士族を町の人がからかった歌との説もあった。

 後に追加されたとされる3番の歌詞は方言が消え、人生訓になっている。

 〈…くよくよしたとてしょうがない いつか芽が出る花も咲く…取り越し苦労はおやめなさい…〉

 福島は「ケセラセラ。悩みを笑い飛ばすような3番が好きです」と言う。「おてもやん」はイネやチモなど激動の時代をたくましく生き抜いた女賛歌ともいえるかもしれない。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2016/12/05付 西日本新聞夕刊=

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