至高の一滴に半生捧げ 醸し人物語(1)

西日本新聞

 室温8度。ほの暗い、ひんやりとした蔵に、発酵した酒母の甘酸っぱい香りが漂う。松尾酒造場(佐賀県有田町大木宿)の杜氏(とうじ)、井上満さん(65)は黙々と、タンクに櫂(かい)を入れていた。酒母とは麹(こうじ)や水、酵母を合わせた酒のもと。「麹菌や酵母菌と会話できるくらいの愛情が生まれます」。その目はまさに、赤子を慈しむ母のまなざし。

 蔵主が思い描く味を、造りの「現場監督」として形にする。県内外の13の酒蔵を渡り歩き、三つの蔵を掛け持ちしたこともある。「能古見」「松浦一」「万里長」、そして「宮の松」。県を代表する数々の酒を手掛け、全国に通用する銘柄を世に出した。酒造関係者は「誰もが認める凄腕(すごうで)杜氏」と口をそろえる。

   ◇   ◇

 肥前町(現唐津市)に農家の長男として生まれた。平野に乏しく生産性の低い土地柄。農業だけでは暮らせず、男たちは出稼ぎで蔵に入った。稲刈り後の秋、杜氏の家には造りを手伝う蔵人が集い、良酒を祈って故郷を後にしたという。蔵人を束ねた「肥前杜氏」の風格に憧れ、中学卒業後、町外の酒蔵で働いた。

 高度経済成長期の1970年代、洋酒ブームのあおりで酒蔵は相次ぎ廃業。「良い酒を造らないと佐賀の未来はない」。名醸地として知られた宮城県での修業を決意した。

 30歳の冬から、名酒「浦霞(うらかすみ)」の醸造元「佐浦」の造りを手伝った。「実は下戸だった」井上さんをも酔わせた酒は「見たこともない丁寧な仕事」に支えられていた。

 蓄積された経験、研ぎ澄まされた勘…。その年の酒米の具合に応じて洗米の水温、浸漬時間を見極める。微妙な温度管理が肝になる麹や醪(もろみ)づくりでは、杜氏は温度計からほとんど離れず1週間近く徹夜した。げっそりと頬がこけた姿にただただ、圧倒された。

 神髄に触れ、兵庫や静岡、広島、福岡、佐賀の各県で杜氏を務めた。42歳からの10年間、担ったのが馬場酒造場(鹿島市)の「能古見」。蔵の命運を握る重責を思い知る。45歳の冬。病に伏す父を思いつつ蔵にこもり、最期に間に合わなかった。葬列に立った翌日には蔵にとって返した。

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 「酒屋男は親の死に目に会えない」。言い古された格言が身に染みた3年後、「能古見」は初めて全国新酒鑑評会の金賞に輝く。

 「一滴に万感の思いが詰まっているんです」

 造りを習った蔵も、尊敬する杜氏の蔵も、とうに廃業した。哀歓をともにした顔が浮かぶたび、思いを継ぐ使命を感じる。「売れる酒を造り、味わってくれる人に届け続けること」。蔵の支えになればと、自ら手掛けた銘柄をインターネットで独自販売。今年は松尾酒造場「宮の松」の輸出にも乗り出す。

 酒の道を歩み半世紀。「日本酒はまだまだおいしくなる」と確信する。香りが良く、膨らみがあり、舌に残らないが、たなびくような余韻を残す酒-。至高の味を求め続ける。

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 日本酒の仕込みは今が最盛期。理想の味を追う人、ひたむきに技を磨く人、うまさを伝える人、街のにぎわいを託す人…。酒を醸す人、酒が醸す物語を、「思い出の一献」とともに紹介します。


 ◆驚嘆した「一献」 1991年の福岡国税局酒類鑑評会・吟醸酒部門で局長杯を受賞した「有薫」(有薫酒造、福岡県久留米市)。ワインのような香りと気風に、本当に米で造ったのかと驚きました。「米だからできる」という鑑定官の一言が記憶に残っています。


 技術と勘、極めた先に

 米と水を原料にした日本酒の造りは、熟練技能者の杜氏(とうじ)、蔵人たちが受け継いできた技術と感覚に支えられてきた。

 精米は、米粒の外側にある脂肪、タンパク質を削る。削り取る部分の度合いを示す「精米歩合」で酒質は変わる。洗米し、適度な水分を吸わせる浸漬(しんせき)は酒の出来を左右する工程の一つ。米の状態を見極め、吟醸・大吟醸用の場合は秒単位の作業になる。

 「一麹(こうじ)、二もと、三造り」と言われるように、蒸した米を使った麹づくりは職人が最も神経を割く。温度と湿度を調節した「麹室(むろ)」で蒸米を広げ、水分を蒸発させ種麹を振りかける。繁殖熱を出す麹の温度管理のため、麹米を手で広げたり、ひっくり返したりする作業が2昼夜は続き、寝ずの番になることもある。

 アルコールを生み出す工程が酒母(しゅぼ)づくり。麹と蒸米、水に酵母を加える。麹菌の働きで蒸米のでんぷんが糖に変わり、酵母が糖をアルコールに変える。「もと」と呼ばれる酒母は、文字通り酒のもと。酒母を別のタンクに移し、さらに麹、蒸米、水を加えて醪(もろみ)をつくる。「初添(はつぞえ)」「仲添(なかぞえ)」「留添(とめぞえ)」の3回に分ける伝統的な「三段仕込み」が主流だ。

 発酵が適度に進んだ頃に醪を搾り、「火入れ」(低温殺菌)をして酵母の働きを止める。程よく熟成させると新酒が出来上がる。

 杜氏は技術、知識、官能に加え、蔵人を束ねる統率力や管理能力も求められる。佐賀の肥前杜氏のほか、全国では能登杜氏(石川県)や南部杜氏(岩手県)などが有名。農閑期に農業者が蔵で働く風習が職能集団を形成したが、その数は減少の一途をたどる。背景には農業経営の通年化、生産工程の自動化、造り手の社員化-といった業界を取り巻く環境の変化がある。

 第2回「人の『和』が生む看板酒」

=2017/01/05付 西日本新聞朝刊(佐賀)=

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