民謡編<333>ゴッタンの世界(16)
野に埋もれた人材が日の当たる場所に立つには必ず、よき理解者の介在がある。忘れ去られつつあったゴッタン奏者の荒武タミを世に送り出したのは南九州の民俗芸能研究者だった宮崎県都城市の鳥集忠男(故人)である。
鳥集がタミの演奏に出会ったのは1974年である。その時の衝撃と興奮を次のように書いている。
「レパートリーの豊かさ弾く技の見事さ確かさ、メリハリに富むダイナミックな歌いぶりに感動し、このような伝承者がまだいたのかと胸の高鳴る思いがした」
すぐに弟子入りした鳥集が、鹿児島民俗学会から「ゴッタン奏者はいませんか」との相談を受けたのが77年の初秋だった。鳥集は即座に師匠のタミを推薦した。
東京の国立劇場ではその年の10月に「日本音楽の流れ」というシリーズの中の5回目で「三弦」をテーマに演奏会をすることを決めていた。劇場の制作側には「ゴッタンも紹介したい」との思いがあった。「いい弾き手はいないか」と鹿児島民俗学会を通じて探していたのだ。
× ×
77年の10月。津軽三味線、長唄など世に知られる伝統芸能者にまじって、宗家や家元とは無縁で、無名の野の人であったタミはステージに立った。愛用のすすけたゴッタン「太郎」を手にして門付けでもよく歌った「賽(さい)の河原」「薩摩三下り」などを披露した。タミの登場でその場の空気が一転したことを鳥集はこのように記している。
「それまでのとりすました雰囲気が一気に変わり、手拍子が入り掛け声がかかった」
国立劇場といういわば権威や格式ある場にタミの素朴で野太い演奏が響きわたった。霧島山麓の盲目の芸能者が聴衆の心をわしづかみにした一瞬だった。
この舞台を機にタミの名とともに、絶滅危惧種のようになっていた楽器、ゴッタンが再評価されることになる。
タミはその後、テレビ、ラジオに出演、アルバムもリリースされた。南日本文化賞など数々の賞や表彰を受けた。また、ゴッタンを習いに来る弟子も増えた。
国立劇場での演奏によってタミは一躍、ゴッタンのシンボル的、伝説的な存在になった。その陰には鳥集をはじめタミの芸への理解者、支持者がいた。タミ愛用のゴッタン「太郎」を鳥集に譲ったことは、タミもそのことをよく知っていたからだろう。 =敬称略
(田代俊一郎)
=2017/05/08付 西日本新聞夕刊=