民謡編<343>国東の琵琶法師(2)

西日本新聞

 大分県国東半島は両子山(720メートル)を頂点にして険しい岩山がつらなっている。「峰入り」という古くからの山岳仏教の修行の場だった。「峰入り」は江戸時代に一時、途絶えていたが、戦後に入って「六郷満山」の僧侶たちによって復活した。

 「六郷満山」の六郷は両子山から放射線状に伸びる谷あいの山里の数だ。満山とは六郷に築かれた寺院群の総称である。現在、国東市だけでも寺院数は約100にものぼる。

 その寺院群の一つとして同市安岐町に天台宗の瑠璃光寺がある。僧侶が「周辺はシカ、イノシシが多いです」と語るような山麓にある。

 本堂の横に、本堂に負けないような立派なお堂が立っている。お堂の入り口には夫婦を彫り込んだ石碑がある。

 この夫婦像は琵琶法師だった高木清玄と今朝子である。2009年、お堂を瑠璃光寺の境内に建てたのは同市鶴川の高木恒男(83)だ。恒男は清玄の義弟、つまり、恒男の実姉が今朝子である。清玄夫妻は共に目が不自由であった。

 お堂の中には清玄が着用した法衣や写真、そして愛用していた琵琶などが置かれている。いわば、このお堂は「清玄資料館」の役割を果たしている。

 先ほどの僧侶は「時々、訪ねて来られる方がいらっしゃいます」と話した。

   ×    ×

 恒男がお堂を建立したのは、清玄の供養と遺品の散逸を考えてのことだ。それと同時に清玄が「お寺を持ちたい」と常々、話していたことも胸の内にあった。その気持ちに応える形で寺院内に建てたのだ。恒男は「建てるには相応の額のお金がかかりました」と言った。

 恒男が清玄の死後、遺品整理の中で驚いたのは残したお金だった。そのお金をお堂建立の資金に充てた。

 「1円、5円玉、10円玉などが入った粉ミルクの空き缶もありました。錆(さ)びてくっついたコインもあり、銀行で計算してもらうのが大変でした」

 清玄はいつも「我慢しなくては」と質素な生活を送っていた。恒男は「目の不自由な2人の老後を考えてのことではないでしょうか」と言った。しかし、倹約家だけでなく、琵琶法師という存在が国東の人々の間に迎えられ、それなりのお布施があったということでもある。生活の中に琵琶法師が根付いていた。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/07/24付 西日本新聞夕刊=

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