民謡編<344>国東の琵琶法師(3)

西日本新聞

 国東半島の琵琶法師、高木清玄は1931(昭和6)年、大分県の旧国東郡武蔵町で生まれた。本名は甲原今朝人(けさと)で、家は農業だった。小学校6年生のときに左目を失明、17歳のときに右目を失った、という。

 「失明の原因ははっきりわからないと聞きましたが、生きていく道を懸命に考えたようです」

 義弟の高木恒男(83)はこのように語った。清玄は20歳前に琵琶法師になる決意をした。近くの天台宗玄清法流の盲僧、橋本清光に入門、経典や琵琶を学んだ。

 清玄は音源としてLP「国東の琵琶法師」(CBSソニー、77年)を残している。そのライナーノートには次のように記されている。

 「伝説では奈良時代…筑紫の太宰府に生まれた玄清が17歳の折失明して盲僧になり…筑前琵琶の開祖になったというが、この玄清を祖と仰ぐ伝承は今も残って…」

 「玄清を師と仰ぐ伝承」は国東の地にも残り、清玄もその流れを引く盲僧琵琶の一人だった。

 清玄など国東の琵琶法師をカメラで追った写真家、高橋昌嗣は次のように話した。

 「天台宗の盲僧琵琶はもちろん宗教性がありますが、目の不自由な人のための職業を考えてのこともあったと思います」

   ×    ×

 目の不自由な琵琶法師は、国東半島では多いときでどのくらいいたのだろうか。同じライナーノートでは江戸時代には「40~50名の数」と推定している。明治に入っての廃仏毀釈(きしゃく)で一時は全くいなくなり、その後、再興するが、終戦直後には大分県全体で「わずか63人」と記している。

 「少年時代、琵琶を背にかつぎで、道行く琵琶法師をよく見ましたし、実際に家での法要で琵琶の音を聴いたこともあります」

 恒男がこう語るように清玄自体も琵琶の音を小さいころから耳にしていた。身近な音だった。また、周辺の人は「清玄さんは浪曲など音楽が好きだった」とも語る。失明、音楽好き…。さらに、仏の里という国東の風土が清玄を琵琶法師への道に向かわせることになる。当時は琵琶法師が国東でも徐々に少なくなっていたが、まだまだ、庶民の生活に中に生きていた時代だった。

 清玄は入門してから1カ月で先輩にまじって家々を回る。それも修業だった。未熟な若き琵琶法師の清玄にとって、自分が国東の最後の琵琶法師になることは露(つゆ)ほども思っていなかった。 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/07/31付 西日本新聞夕刊=

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