【記憶を訪ねて 戦後72年(3)】18歳の死、風化させない

西日本新聞

 なぜ、筑豊に空襲はなかったのか-。国内有数の産炭地で、戦時中は燃料供給の拠点だった。同じ産炭地の福岡県大牟田市、隣の北九州市や福岡市が大規模な爆撃を受けた中で、以前から不思議に思っていた。

 資料を探った。炭鉱労働者として戦争捕虜が収容されていたから-との説があったが、本当のところは分からない。ただ、飯塚市史にこんな記述を見つけた。

 《実際には、飯塚市と直方市は、アメリカ軍が作成していた爆撃目標180都市にあげられている》

 米軍が人口順に国内都市を示していたという「爆撃目標計画順位表」。この表によれば、直方は113番目、飯塚は114番目に登場していた。戦争が長引けば、直方も飯塚も米軍に爆撃されていた可能性は否定できない。

 飯塚の上空では、米軍機編隊との交戦があり、若い命が失われた。1945年8月8日。八幡(現北九州市)へ爆撃に向かう米軍機を迎撃するため、飛び立った日本軍機のうち1機が、飯塚市鯰田に墜落した。搭乗していたのは大村海軍航空隊(長崎県)に所属する久世龍郎一等飛行兵=三重県出身。享年18だった。

 「日本防衛の為に戦い、18歳の若さで亡くなった。風化させず、次の世代に伝える必要性を感じます」

 自衛隊OBらでつくる飯塚市郷友会の小西泰巳会長(69)はそう語る。8日、久世飛行兵が墜落した場所から近いとされる鯰田地区の県道脇にある慰霊碑前で同会による式典が催された。陸上自衛隊飯塚駐屯地音楽部の演奏が響き、約20人の出席者が献花した。

 碑に飾られた遺影の若者は、搭乗員服を着てまっすぐ前を見ていた。資料によれば、久世飛行兵は43年4月に航空機搭乗員を養成する予科練に入隊し、翌年に部隊配属。同期生1585人のうち、終戦までに826人が亡くなったという。

 小西会長は式典で、久世飛行兵が所属していた飛行隊の大尉が残したこんな言葉を紹介した。「あなたは、紅顔可憐(かれん)な少年でした。散髪屋で頭の上に長い毛を少し残して『分隊長、これは長生きに通じるまじないです』と言って大笑いしました」

 きっと仲間に愛されていただろう。生きていれば、今年で卒寿を迎えていたかもしれない。孫はいただろうか…。終戦1週間前、空襲はなかった飯塚でも命を落とした若者がいたことを知り、戦争の残酷さと記憶を語り継ぐ難しさに思いは巡り続けた。

 久世龍郎・旧海軍一等飛行兵慰霊碑の場所 
飯塚市鯰田にある西田工業・生コンクリート工場前。一帯は炭鉱跡地で、正確な墜落地点は分かっていない。飯塚市郷友会による毎年8月8日の慰霊祭は、今年で21回目を数えた。

=2017/08/09付 西日本新聞朝刊=

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