民謡編<346>国東の琵琶法師(5)

西日本新聞

 高木清玄が琵琶法師として独り立ちする契機になったのは結婚である。30過ぎてマッサージ師の高木今朝子(けさこ)と結ばれ、高木姓に入った。清玄の本名は今朝人だ。今朝子も目が不自由だった。二人の生活を生涯、支援していた大分県国東市に住む、今朝子の弟の高木恒男(83)はこう言った。

 「似た名前でもあり、縁があったのでしょう。最初、姉(今朝子)のところに、オッサンが点字を習いに来たのが最初です。目が不自由な所をお互い理解しあってよかったと思います」

 国東地方では琵琶法師を「オッサン」と呼んでいた。「和尚」という意味である。二人は恒男の自宅近くに家を構えた。1階はマッサージ室、2階に観世音菩薩(ぼさつ)やお不動さんを祭った「明光院」を開いた。

 放浪芸を訪ね歩いていた小沢昭一は1970年ごろに、清玄に会っている。小沢の著書「日本の放浪芸」(74年、番町書房刊)の中で、次のように書いている。

 「高木さんは琵琶を背負って一日二、三十軒の家を廻って歩くそうだ。荒神の祓いをするだけでなく、老人の話相手になって嫁の自慢話も聞かなくてはいけない」

 お経を唱えながら琵琶を弾くだけでなく、家々の悩みなども聞く巡回相談員的な役割もあった。

   ×   ×

 足で生活費を稼がなくてはならなかった。清玄は10キロ先の家にも杖(つえ)をつき、バスを乗りながら訪問している。回るエリアは広い。同書の中で、清玄は次のように話している。

 「人間は不思議なもので、目が失くなったら何処かがその代わりになってくれる。例えばオデコの自律神経が発達しまして、前に障害物がありますと、あれは気圧の変化かなんかあるのでしょうか、近づくとオデコに圧迫感を感じます。ですからオデコがブレーキの役目をしているようです」

 お布施の額については「それはお答えしないことになっています」と語っている。恒男は「米、野菜などの現物もあったようです」と話す。また、自宅の粉ミルクの空き缶に5円玉、10円玉を入れて「貯金」していた。妻のマッサージ業とお布施で、二人は支え合いながら自力で生活していた。

 琵琶法師の大事な仕事の一つは竈(かまど)祓いだ。この宗教儀式はそれなりのお布施はあっただろうし、琵琶法師の見せ場でもあった。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/08/14付 西日本新聞夕刊=

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