民謡編<348>国東の琵琶法師(7)

西日本新聞

 大分県国東市の瑠璃光寺(るりこうじ)内に建てられた高木清玄の資料館ともいえるお堂には、清玄の使用していた遺品の琵琶や法衣が保存されている。長年、愛用していた笹(ささ)琵琶は清玄が死去したとき、柩(ひつぎ)に一緒に納められた。清玄の義弟の高木恒男は「向こうで琵琶がないとさびしいかなと思って…。今では残しておけばよかったかな、と思います」と語る。

 お堂の中には2本の琵琶が残されている。それを手に取ると、清玄の琵琶の音が聞こえてきそうだ。お堂の中で色を添えるのは法衣である。鮮やかな草色、紫などが目に入ってくる。恒男は「法衣の色にはうるさかったですね」と言う。目が不自由だった分、より強く色の世界への憧れがあったのかもしれない。

 法衣を着て、笹琵琶を手にした清玄の大舞台は1993年10月の国立劇場(東京都)だった。同劇場の邦楽シリーズの中の「盲僧琵琶」の弾き手として登場した。竈(かまど)、仏像の前ではない。聴衆を前にしたステージで「荒神和讃(わさん)」などの十八番を披露した。宗教者としてではなく、芸能者としての色彩が強い公演だった。

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 清玄は70年ごろに「琵琶を弾かないようなお坊さんは御利益がないと言う方が多くいます」と話している。一説によれば国東の琵琶法師は中世以来の伝統とも言われる。その長い歴史によって、清玄の言うような琵琶文化が生活に浸透していた。

 70年代以降、琵琶法師の出番は少なくなっていった。その一方、人間文化財的な文脈で、テレビやラジオなどのメディアに取り上げられることが多くなった。国立劇場での公演も、その流れと無縁ではない。

 琵琶法師の一般的なイメージは、琵琶を弾きながら平家物語などを語るシーンを思い浮かべる。確かに、浄瑠璃のような琵琶の語り物は庶民の一つの娯楽だった。ただ、清玄は「私も知っていたらやりますが、師匠が教えてくれなかった」と語っている。清玄はお経と琵琶という国東の伝統的スタイルを守った一人だった。言い換えれば国東という仏の里の風土が守ったということもできる。その意味では、清玄は国東の仏教文化を琵琶で伝える証人であった。

 国立劇場での公演から3年後、清玄は65歳で死去、国東半島から琵琶法師が消えた。 (田代俊一郎)

 ◇次回からはフォーク編を連載します


=2017/08/28付 西日本新聞夕刊=

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