宗茂が着手 半人工河川 矢部川から分流、23キロの花宗川 運河と小河川を合体 農地潤し、大川家具も生む

西日本新聞

長さ120メートルの花宗堰で分流した水が花宗川(手前)を流れていく 拡大

長さ120メートルの花宗堰で分流した水が花宗川(手前)を流れていく

矢部川と花宗川の分流地点にある中州の石碑。カッパをまつっているそうだ 八女市の坂本繁二郎アトリエ跡近くを流れる花宗川。今も変わらない農村風景が垣間見られる 筑後市の花宗川にある「井手」と呼ばれる取水施設(手前)。右奥にある用水路へと水が分流していく 最下流部で筑後川と合流する花宗川。奥の建物は水位調整用の花宗水門

 八女市で矢部川から分流し、筑後市、大木町を経て、大川市で筑後川に合流するまで約23キロを流れる花宗川。戦国末期から江戸時代初期にかけてのかんがい工事を経て完成したこの川は「半人工河川」とされる。耳慣れないこの言葉の意味を、川の歴史をたどり、探ってみた。

 八女市矢部村の釈迦岳山地を源にした矢部川は、日向神ダムを経て山間部を通り、いくつもの川と合流し次第に川幅を広げていく。星野川との合流地点より下流に約700メートル、川は石造りの花宗堰によって花宗川へ分流する。

 この川の整備に着手したのが戦国武将で柳川藩初代藩主、立花宗茂(1567~1642)だった。数々の武勲で知られる宗茂だが、地域振興にも関心が高く、1587(天正15)年に花宗川の開発に着手したとされる。花宗川の名は、立花宗茂の真ん中の2文字を取ったものだ。

 宗茂が川を整備した最大の目的は農業用水の確保だった。筑後平野は広大な農地としての可能性があったが、矢部川だけでは満たすことができず、その水をいかに有効利用するかが課題となっていたからだ。

 花宗堰を管理する花宗用水組合(八女市)によると、矢部川は全長約61キロで県内3位の長さを誇るが、農地に対する流域面積は極めて狭いという。一般に水田を潤すには、農地の10~15倍の流域面積が必要と言われているが、当時の矢部川は5倍程度しかなかったとされる。そこで、宗茂が手掛けたのが運河だった。

 工事に着手した宗茂だが、関ケ原の戦い(1600年)で西軍方についたため、改易の憂き目に遭う。その後、新たな領主となった田中吉政(1548~1609)とその子の忠政(1585~1620)が工事を引き継いだ。

 田中吉政もいわゆるインフラ整備や産業振興に力を入れる。柳川の掘割や、柳川と久留米を結ぶ久留米柳川往還道(現県道23号)などを次々と整備。その一環として、流域にあった小河川と運河をつなぎ合わせ、1614年に花宗川を完成させた。花宗川が「半人工河川」と呼ばれる由縁である。その後、藩では食糧増産のため、米と麦の二毛作を奨励したという。

 最下流部で筑後川と合流する花宗川は八女地方の農産物などを貿易港・若津港(大川市)へ運ぶ水路にもなった。大分県日田地方から筑後川を運ばれてきた木材も流れのゆるい花宗川にいったん引き込まれ、商取引された。その中で、やがて木材を使って家具を手掛ける業者も出てくる。花宗川は大川家具も生んだのである。

=2017/10/03付 西日本新聞朝刊=

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