投下9分前 幻の空襲警報 軍が「原爆搭載機」察知 退避命令はさく烈直後

 長崎原爆投下直前の1945年8月9日午前10時53分、原爆搭載機の動向を察知した日本軍は空襲警報を出したが、長崎には届かなかった。記録上だけの警報だったとみられる。投下目標が小倉から長崎に変更されたことを把握した後にはラジオで退避命令を呼び掛けたが、それも原爆がさく裂した直後。2度出された“警告”は市民避難には結び付かず幻に終わった。

 戦時下の主な警報伝達としては、軍管区司令部からのラジオ放送、自治体によるサイレン、各家庭への電話連絡などがあった。いくつかの伝達方法を併用し、市民の情報共有を徹底していたとされる。他にも主要な軍需工場には軍との直通電話があり、警報などの情報が直接伝わる仕組みができていたという。

 旧防衛庁が編集した「本土防空作戦」(1968年発刊)によると、8月9日の記述で、国東半島から北九州地区に向かう爆撃機B29を2機発見し、西部軍管区司令部が午前10時53分に空襲警報を発令。「(6日の)広島への原子爆弾投下の状況から原爆搭載機であろうと判断された」とある。

 しかし-。9分後に被爆地となる長崎にはこの警報は出されなかった。爆心地から3・3キロの旧制長崎中の生徒だった深堀譲治さん(86)は、動員学徒として校内の軍需工場にいた。「何となく飛行機の音のような音がしておかしいなとは感じたが、原爆投下まで避難の指示はなかった」と振り返る。

 同1・3キロの自宅にいた被爆者の丸田和男さん(85)によると、敵機が島原半島上空を飛行していることを知らせるラジオ放送を職場や家庭で耳にした被爆者はいるが「直前に市民に空襲警報が出された記憶はない。投下間際になっても緊急事態だとは感じなかった」と語る。

 8月9日の記録にはまだ不明な点も多いが、県や市に残る記録では午前7時48分に警戒警報が出た後、同7時50分に空襲警報に切り替わり、同8時半には解除になっている。その後は原爆投下までの間に空襲警報は出されていないことになっている。解除後、ほとんどの市民は避難の必要性を感じなかったとみられる。

     ◇

 日本軍は、米軍機が原爆投下の第1目標だった北九州上空から南西に針路を向けたことを察知すると、ラジオなどの通信機関を利用して「B29少数機、長崎方面に侵入しつつあり、全員退避せよ」と繰り返し連絡したとしているが、この放送も実際には伝わっていなかった。放送が流れた時には既に原爆が投下されていたからだ。

 三菱重工業長崎造船所などで被爆した人の証言をまとめた「原爆前後 13巻」には、現在の佐賀県武雄市に一時帰省していた男性労働者の体験として「長崎方面に閃光(せんこう)が走り、爆発音が聞こえた。間もなくラジオから悲痛な声で『長崎市民は全員退避』を連呼し-」とある。退避命令を伝えるラジオは、わずかな差で間に合わなかったようだ。

 太平洋戦争末期、相次いで本土の各都市が空襲された。敵機の侵入を許し、混乱を極めていた日本の空。B29の動きを把握しながら警報は市民の耳に届かず、退避を命じるラジオが間に合わなかったのは、防空体制の対応が追い付いていなかった現実を浮き彫りにしている。

知事、市民全員退避を検討していた

 原爆が投下される前日の8月8日夕、長崎市民の全員退避が検討されていたことはあまり知られていない。長崎原爆戦災史などによると、広島に新型爆弾が落とされたことを知った当時の永野若松知事は「今に長崎にも同じ(新型)爆弾が落とされるはずだ」と判断していた。

 8日、東京から長崎に帰り着いた長崎新聞会長の西岡竹次郎氏が、退庁時刻ごろの県庁を慌ただしく訪ね、永野知事にこう伝えた。「新型爆弾が落ちた広島のことを軍も秘密にしているし、うかつにしゃべると憲兵に引っ張られるかもしれぬが知事には知らせておきたい」。帰途で広島原爆に遭遇していた。

 一晩考え、9日朝には市民を総避難させる決意を固めた永野知事。命令を出すために関係者を集めた協議の場を県庁で開こうとしたが、午前7時50分に空襲警報が出されたため、県防空本部が置かれていた防空壕(ごう)に移動。そこで改めて会議を始めようとした直後、原爆が投下された。

この記事は2017年06月10日付で、内容は当時のものです。

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