フォーク編<353>大塚博堂(5)

西日本新聞

 「シンガーになるために生まれてきた」

 大塚博堂の周辺の人はだれもがこのように語る。それほど歌唱力は小さいころから折り紙付きだった。当然、進路指導にあたった中学、高校の教師も「音楽の道へ」と強く肩を押した。

 高校では音楽科を選択し、大学も東洋音楽大(現東京音楽大)の声楽科へと進んだ。順当なコースのように見えるが、博堂の内には既に高校時代からある葛藤が芽生えていた。

 「ジャズシンガーになりたい」との思いとクラシックを基本にする高校、大学の授業とのジレンマを抱え込んでいた。東洋音楽大を選んだ理由の一つについて甥(おい)の大塚郷は次のように語る。

 「この大学出身者には淡谷のり子さんがいたというのを誰かに聞いて知っていたようです」

 「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子(1907~99)は博堂と同じ声楽科出身である。シャンソン、ジャズ、歌謡曲など幅広く活躍した流行歌手だ。淡谷のり子という固有名詞は、博堂にとって大学を選択するための納得付けの一つとも言えるが、淡谷に自分の将来の形を重ねた部分があった。もちろん、単純に東京への憧れもあった。

   ×    ×

 博堂はその大学を2年で中退する。実姉の永井洋子は中退の理由について話した。

 「父が公務員を定年退職したこともあり、経済的な援助があまりできなかったようです」

 経済的な苦しさに加え、大学の授業への違和も徐々に強くなっていた。「博堂伝説」(大塚博堂・藤公之介著、岩崎電子出版刊)の中では次のように書かれている。

 「大学の押しつけ授業にイヤ気がさして、気持は学校から遠ざかり始めていた。一杯のコーヒーで、ジャズ喫茶に一日中粘る日が増えていった」

 中退。故郷の大分県別府市に帰った。20歳、最初の挫折だった。洋子より上の姉、ヤヨイが嫁いでいた別府市内の花屋でアルバイトしたり、高校時代に通っていたジャズ喫茶などで歌ったりしていた。

 居候的な、中途半端な存在の博堂を目覚め、再生させる出来事は、深い愛情を注いでいた父の死だった。67年、博堂が23歳のときだ。洋子は言った。

 「シンガーとして自立、自活しなくてはいけないと思ったようです」

 帰郷して4年。博堂は父の四十九日法要を終えると決したように旅支度を整えた。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/10/16付 西日本新聞夕刊=

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