弾圧の闇、監獄島は語る 台湾戒厳令解除30年、「権力の怖さ 忘れるな」

西日本新聞

 台湾の東海岸の沖合に浮かぶ緑島。ここにはかつて、国民党政府が敷いた38年間にわたる戒厳令下で捕らえられた政治犯の収容所があった。当時の台湾では密告や拷問が横行し、多くの人が無実の罪で処刑され、命を落とした。戒厳令の解除から今年で30年。現在では自由で民主的な社会を築いた台湾だが、弾圧を受けた人々は「牙をむいた権力の恐ろしさを忘れてはならない」と今なお訴える。緑島を訪れ、民衆を恐怖で支配した戒厳令時代の政治弾圧の実態を振り返る。
 (台北・中川博之)

 台湾の南東部、台東市の沖合約30キロに浮かぶ緑島は、外周約20キロをサンゴ礁に囲まれた風光明媚(めいび)な島だ。

 7月下旬、緑島に1951年から12年間収容された鍾紹雄さん(88)=台北市=と島を訪れた。離島以来、半世紀ぶりに再訪した鍾さんは「こんなに発展していたとは」と何度もつぶやいた。夏の観光シーズンを迎えた島は、ダイビングや海水浴を楽しむ観光客でにぎわっていた。

 島北部の海岸近くに、政治犯の収容所「新生訓導処」跡はあった。今は「緑島人権文化園区」として一般公開されている。収容棟は復元され、収容者の生活ぶりを伝える人形や写真が展示されている。

 新生訓導処の「新生」とは国民党政府を称賛する思想教育で「新しく生まれ変わる」ことを意味する。多いときには2千人が収容され、労役により海岸で切りとった石で収容所の壁や小屋を築き、田畑を開墾したという。

 施設内には収容者の顔写真とそれぞれの刑期が展示されていた。「この人は賢くて親切だった」「この人は気が狂って自殺した」。写真を指さして当時を振り返っていた鍾さんが丸刈りの青年の写真をじっと見つめた。青年の刑期の欄には「5年」のほかに「追加判決死刑」と記されていた。

 鍾さんによると青年は、たまたま参加した勉強会が共産党関係組織だったために逮捕された。5年の刑期で済むはずが、収容者仲間に「頑張りましょう」と書いた紙を渡したため処刑されたという。「むちゃくちゃな話だ。法律に関係なく多くの人が殺された」

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 展示された顔写真の中には、短髪で精悍な顔つきをした若い頃の鍾さんもいた。鍾さんも過酷な体験をした。台湾全土で民衆が蜂起した47年の「2・28事件」に関わったとして50年に逮捕され、取調官に胸を拳で圧迫される拷問を受けて吐血した。

 緑島に収容後、「私は病気だ。働けと言うならここから担ぎ出せ」と抵抗。労役は免れたが、他の収容者からの隔離を理由にくみ取り式便所の横に寝床を設けられた。「一日中、便所の横で寝るか座るかして過ごした。真横で用を足され、アンモニア臭がつーんと鼻を突く。処刑も覚悟したが、やつらの言いなりにはならないと最後まで抵抗した」

 島で生まれ育った陳新伝さん(90)を訪ねた。当時、島には医師がおらず、医師免許を持つ収容者が島民を診察した。子どもを診てもらったという陳さんは「政治犯が悪い人たちでないことは島民全員が分かっていた。気の毒だと思っていたが、どうしようもなかった。そんなことを口にすれば、密告されて逮捕される時代だった」

 生きるためには口を閉ざすしかない暗黒時代は、戒厳令が解除される87年まで続いた。

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 緑島の施設内に、手の爪をはがされ、全身をアリにかまれる男性の絵が展示されていた。絵のモデルは、緑島を含む台湾各地の収容所に計22年間投獄された郭振純さん(92)だ。

 郭さんは現在、台湾北部の新北市にある政治犯収容所跡の「景美人権文化園区」で語り部として当時の体験を伝えている。取材に訪れると、半世紀以上前の出来事を克明に覚えていた。

 53年、反政府運動に加わった容疑で逮捕された郭さんは、取調官が勝手に作った供述調書への署名を拒否。取調官は釈放と引き換えに仲間を密告することを迫ったが、それも拒んだ。

 待ち受けていたのは拷問だった。両手両足の爪をはがされた。背中をむち打たれ、麻袋に詰めて水中に落とされた。それでも従わないと、後ろ手に縛られたまま砂糖水をかけられてアリの群れに放り出された。アリにかまれた痛みと毒で全身がけいれんした。拷問に耐え抜いた郭さんに下された判決は無期懲役。「多くの仲間がでっち上げの調書を認めて処刑された。拷問に屈していれば私も死刑になっていた」

 強靱(きょうじん)な意志で収容所暮らしを生き延びた郭さんが最も耐え難かったのが、保身のために仲間を裏切る人々だ。収容所では、看守に気に入られようと収容者同士の密告が相次ぎ、多い年には10人以上が処刑された。

 「権力や暴力の前に人は弱い。多くの犠牲によって手に入れた自由も、油断すればあっという間に奪われる。暗黒の時代に戻らぬよう、私たちの体験を一人でも多くの人に伝えていく」

 台湾の戒厳令と弾圧

 日本の敗戦後、中国から台湾へ渡った国民党による統治が始まって間もない1947年、汚職や台湾出身者への差別の横行、治安や生活の悪化に反発する民衆が台湾全土で蜂起する「2・28事件」が発生した。国民党政府は武力で鎮圧。犠牲者は1万8000~2万8000人に上るとされ、民衆の反発は強まった。国民党政府は49年5月~87年7月、世界最長といわれる戒厳令を敷き、政府に批判的な言動を徹底的に弾圧した。戒厳令下の犠牲者は2000人とも4000人ともいわれるが、家族にも伝えない秘密逮捕で処刑された人もいるため、処刑名簿には1000人余りしか記載されていない。蔡英文総統は昨年12月、戒厳令下で行われた弾圧の実態について調査報告書を3年以内にまとめる方針を示した。

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 ●13年間投獄の江槐邨さん、悲しみ短歌に

 日本統治時代の台湾で生まれ育った江槐邨さん(85)=新北市=は、「白色テロ」と呼ばれた戒厳令下の弾圧で家族や友人を奪われた悲しみを今も短歌でつづっている。

 寒波の朝謀反の廉(かど)で逮捕され母は悲しく吾を見送る

 18歳で役所に勤め始めたばかりの江さんは1951年1月の朝、自宅で逮捕された。容疑は共産党関係の書籍を持っていた同級生の家に数回通ったというもの。連行される江さんを見つめる母親の顔が今も胸に焼き付いている。

 「親を頼む」言葉今尚胸を裂く白色テロの遺族の悪夢

 死刑におびえながら判決を待つ軍法処看守所での日々は過酷だった。狭い部屋に十数人が詰め込まれ、寝るときは「魚の缶詰」のようにぴたりと体を寄せ合った。江さんの友人は、面会に来た妹に「親を頼む」と言い残して処刑された。その友人の父親はショックでうつ病になり、母親は自殺を図ったという。

 吾を憂(うれ)ひ病み臥(ふ)す母を緑島に最後の別れ叶(かな)はぬを嘆く

 緑島に送られた江さんの目に映ったのは、炎天下の作業で顔の見分けが付かないほど真っ黒に日焼けした収容者の姿。厳しい労役に追い打ちを掛けるように、母親の死亡を知らされた。江さんの逮捕後、体調を崩して衰弱していったという。「『雷に打たれても死なない』と言われるほど丈夫な母だった。まさか、逮捕の時が最後の別れになるとは」と言葉を詰まらせる。

 緑島(しま)の浜に淋(さみ)しく眠る隊友(とも)の塚雑草(くさ)茂り啼(な)く海鳥(とり)の音侘(わ)びし

 13年間投獄された江さんは2002年、半世紀ぶりに緑島を訪れ、観光地になった島を複雑な思いで眺めた。「自由を手にするために数え切れない血と涙が流された。今の島に当時の面影はない。島民の暮らしが良くなったのがせめてもの慰めです」


この記事は2017年08月21日付で、内容は当時のものです。

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