フォーク編<355>大塚博堂(7)
元ジャズドラマーの通称、直さん(80)は福岡市・春吉のクラブ「絹」で大塚博堂のバックで演奏した1人である。直さんにとってバンドマン時代は華やかな思い出とともに苦さもある。
「35歳ごろ、バンド時代の写真はすべて焼いた。1枚も残っていない。なぜ、焼いたかは言いたくない」
自らの人生を一度、清算する大きな出来事があったのだろう。もし、直さんの手元に写真が残っていたなら、バンド仲間として博堂と一緒に写った写真があったかもしれない。博堂は極端な写真嫌いなところがあり、博多時代の写真は、遺族の元には1枚も残っていない。
直さんは佐賀市生まれ。兄が長崎県佐世保市でジャズコンボのバンマス(バンドマスター)をしていた。18歳のとき「ジャズをやりたい」と兄を頼り、バンドボーイの下積みをしてバンドマンになった。佐世保や北九州のキャバレーなどを経て、博多へ。「絹」で大分県別府市から来た博堂と出会った。
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直さんは写真を葬ったが、その時代のことは記憶の中でネガのように焼き付いている。
「『絹』の床は靴が見えなくなるようなふかふかの絨毯(じゅうたん)で、(中洲から博多湾へ流れ込む)那珂川側はガラス張り。それはゴージャスな店でした」
バンドはピアノ、ギター、ドラム、べース、アルトサックスのコンボ。博堂はこれをバックにジャズナンバーを歌った。
「いろいろなシンガーのバックをやったけれど、その中でもものすごくうまかった」
歌う曲はジャズだけではない。客がリクエストすれば歌謡曲なども歌わざるを得なかった。ただ、客がまだ来ない口開けのひとときがメンバーたちの自由で、妥協のないジャズセッションの時間帯だった。博堂は同僚に、客にもまれて地力を付けていく。
店では当時の有名歌手を呼んでのイベントもあった。「知りたくないの」「今日でお別れ」などのヒットで知られる実力派シンガー、菅原洋一がステージに立ったことがある。前座で博堂は歌っていた。菅原は言った。
「大塚君の後では歌いにくいな」
こういったエピソードも残している。
「歌がうまい人」「しゃべらない人」「酒が好きな人」-これが直さんの博堂の印象だ。直さんは演奏の合間、近くの食堂「花びし」へよく一緒に行った。チャンポンを「うまいな」と言いながら食べる博堂の姿も鮮明に覚えている。
=敬称略
(田代俊一郎)
=2017/10/30付 西日本新聞夕刊=