フォーク編<358>大塚博堂(10)

西日本新聞

若き日の高橋真梨子 拡大

若き日の高橋真梨子

 実力派シンガーの高橋真梨子と大塚博堂はともに博多でのクラブ時代をステップにしてメジャーデビューした。同じ空間を共有し、同じジャズシンガーを目指す仲間だった。高橋は博多時代を回想してこう語った。

 「博多で歌って、博多で死にたいと思っていました」

 博堂は大分県別府市、高橋は広島県廿日市市生まれだ。その2人をジャズシティとして輝いていた博多の地が引き合わせた。

 高橋は朝鮮戦争が始まった1950年、広島から母と一緒に博多にやってきた。まだ、1歳半。前年に職を求めて先発していた父、月夫の後を追っての移住だった。

 月夫は国鉄マンだったが、ジャズプレーヤーになりたかった。日本は戦争特需で景気は上昇し、さらに板付、西戸崎などに米軍キャンプがあった福岡は好景気に沸く。クラブ、キャバレーだけでなく、キャンプ内の娯楽としてジャズは盛んに演奏されていた。月夫は国鉄を退職し、サックスプレーヤーの夢を実現するために新天地=博多を求めたのだった。

   ×    ×

 月夫はキャンプ専属のビッグバンドのメンバーとして一歩を踏み出した。一家はようやく安定した生活を手にしたかのようにみえた。まもなく突然の病魔が月夫を襲った。手足に血が通わなくなる難病にかかる。月夫は広島で被爆していた。病気との因果関係は、はっきりしない。長く苦しい闘病生活を続けるが、志半ばの37歳で他界した。高橋が中学3年生のときだった。

 高橋は月夫の影響もあって、中学2年生のときから月夫のジャズ仲間のピアニストからレッスンを受け、歌手への道を進んでいた。「すごい歌い手がいる」。そのピアニストからの口コミで高橋の名前は中洲界隈(かいわい)でうわさになる。地元私立高校に進学。時々、キャバレーの「赤い靴」「桃山」などで歌っていた。高橋は言った。

 「スカウトされたというのが正直なところです。当時、西中洲と中洲で対抗してお客の取り合いをしていたから、歌手も取り合いでした」

 福岡市の渡辺プロダクション九州支社から誘いがあり、高校1年が終わって時点で上京、渡辺プロへ。同期には森進一などがいた。1966年、スクールメイツの一員として芸能界デビューを果たすが、アイドル路線は「自分に合わない」と3年後には博多に戻る。ここで博堂に出会った。

 =敬称略

 (田代俊一郎)


=2017/11/20付 西日本新聞夕刊=

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