通信使と久兵衛交流日記 対馬で接待、朝鮮語訳?のページも 広瀬資料館で4冊展示

西日本新聞

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朝鮮通信使を接待した広瀬久兵衛の日記

広瀬久兵衛の肖像画(広瀬資料館提供)

 江戸幕府の天領だった日田の豪商、広瀬久兵衛(1790~1871)が、1811(文化8)年に長崎・対馬を訪れた最後の「朝鮮通信使」を接待した際の日記4冊が日田市豆田町の広瀬資料館で展示されている。久兵衛の日記には日本語の朝鮮語訳を書いたとみられる記述もあり、同館は「懸命に他国の文化を学ぼうとする好奇心旺盛な久兵衛の姿が感じられる」としている。6月末ごろまで。

 昨年、朝鮮通信使関連資料が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録されたことを受けて企画された。久兵衛は、江戸後期の儒学者で私塾「咸宜園(かんぎえん)」を開いた広瀬淡窓の弟。家業を継いで幕府の公金を扱う「掛屋」として活躍する一方、九州各地で藩財政の立て直しや、かんがい、新田開発などの土木事業にも尽力した。

 同館によると、久兵衛は家業を継いだ翌年の21歳の頃、対馬藩と仕事上の付き合いがあった縁などから対馬に約半年間滞在し、300人を超える通信使を接待した。この年の通信使は、幕府の財政難などで江戸には向かわず対馬で国書を交換した。

 日記は、いずれも大人の手のひらほどの大きさ。日田から対馬へ向かう行程や通信使を迎えるための打ち合わせ内容などが記されている。このうち「朝鮮言」と書かれたページには、「火 プリ」「子供 ハイドリ」「飯 パブ」など日本語の下に朝鮮語とみられるカタカナが書き込まれている。同館の園田大(ひろし)学芸員は「この日記を辞書代わりに通信使と交流したのではないか」とみる。久兵衛が通信使から土産にもらった朝鮮団扇(うちわ)も公開している。

 園田学芸員は「通信使との交流を通じて他国の文化を学んだことが、後の土木事業などの大事業にもつながったと思う。展示を通して日韓交流を見つめ直す機会にしてほしい」と話している。

=2018/02/28付 西日本新聞朝刊=

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