古唐津に「砂岩説」 朝鮮半島の陶工、陶石代わりに使う 陶芸家に浸透、再現挑む

 土の味わいが魅力の唐津焼。粘土から作られた陶器というのが一般的な見方だが、発祥した400年以上前は、磁器の技術を用いて作陶されたという説が唐津焼の陶芸家の間で浸透している。初期の古唐津は、砂岩を砕いて土にし、素地(きじ)の原料にしたというのだ。古唐津の硬く焼き締まった質感に憧れ、当時の技法を再現しようとする陶芸家たちがいる。栗原流石さん(68)も「古唐津砂岩説」のとりこになった1人だ。

 「古唐津は水漏れしない」。時代を経ても、なお硬質を保つ力強さが古唐津にあるというのが、骨董(こっとう)界では常識化している。一方、現代の唐津焼は、古唐津の雰囲気を出すように作っても水漏れする場合があり、どこかに違いがあると見る向きがあった。

 古唐津は、桃山から江戸時代初期にかけて作られた。その後、京焼風の洗練された「献上唐津」が生産されるようになると、その技法はいったん途絶える。昭和初期、古陶磁への関心が高まり、桃山陶が評価されるようになる中、古唐津は故中里無庵(十二代中里太郎右衛門)さんによって再生、復興された。

 いまでは、陶芸家や研究者によって古唐津研究交流会が組織され、いにしえの陶工の技法により迫る努力が続く。「砂岩説」は専門家が提唱したのを受け、会員たちが実際に砂岩を原料にした器を作り、試行錯誤しながら、古唐津の締まった味わいを表現するようになった。

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 古唐津が作られ始めたのは1580年代とみられ、朝鮮半島から大勢の陶工が連れて来られた豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592~98年)よりも、ややさかのぼる。唐津市北波多の岸岳に城を構えた波多氏の元に渡来した陶工集団が、当時の日本にはなかった割竹式と呼ばれる登り窯を築き、日用の皿や瓶を焼いたのが古唐津の草創期に当たる。

 「朝鮮半島では当時、磁器の高度な製造技術があった。岸岳で日用雑器を作ったのは磁器の陶工たち」と栗原さんは説明する。ただ、有田町の泉山で磁器の原料の陶石が発見されたのは1610年代。岸岳の陶工が、陶石の代わりに使ったのが周辺で採取できる砂岩というのだ。

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 砂岩は花こう岩が風化してでき、粒となって木などの有機物と一緒に流されて堆積し、岩状や土状になったものもある。ただ、土状の砂岩を水でかき混ぜて沈殿させ、粒の大きさを整える精製をしても締まった焼き上がりにならないことがある。栗原さんも苦い経験をした。「しっかり焼いたのに微細な穴が素地にでき、ひどく水漏れする失敗作ができたことがある」

 失敗の原因をこう考える。風化してできた粒は水に流され堆積するまでに丸く磨かれる。丸い粒は焼成中も溶けず骨材の役割を果たすが、それがくせ者だ。粒の周りの隙間は熱で溶け出したほかのガラス質成分が埋めていくが、丸い粒同士では隙間が大きく水漏れが起きやすくなるという。

 「土状の砂岩なら乾かしてから、岩状ならそのまま砕いてきねで骨材の粒をはたくのが肝心。丸い粒が割れて鋭角になり、お互いがくい込みやすく隙間を小さくする。もう一つのポイントは、カオリンが混ざった砂岩を使うこと」。カオリンは陶石にも含まれる白い粘土。土に粘り気を出し、耐火度も上げるため高温で焼き上げることができる。

 「古唐津を作った陶工は、陶石がないのなら、それに代わる原料を見つけ出し工夫して使っていた。陶器や磁器の区別はなく、ただ原料が異なる焼き物を作っているという感覚だったのでしょう」。栗原さんは、磁器の技法に合った質の高い土を探し当てるのも、古唐津を作った陶工たちの優れた技だったと見る。

=2018/03/01付 西日本新聞朝刊=

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