後藤又兵衛の膳は「寺の宝」 黒田家出奔後かくまった西福寺に保存 悲運の武将支えた証し

西日本新聞 北九州版

 黒田家の家臣「黒田二十四騎」の一人で、「やりの又兵衛」と称された戦国武将の後藤又兵衛基次(1560~1615)。黒田方を出奔後、彼は流浪生活を送った。その振り出しが行橋市今井にある西福寺(塩先晋照(しんしょう)住職)。寺には、かくまわれた又兵衛が使った膳が大切に保存されているという。境内には又兵衛の慰霊塔もあり、代々手厚く又兵衛を守っている西福寺を訪ねた。

 又兵衛は現在の兵庫県で生まれ、黒田官兵衛(如水)に養育された。官兵衛の長男で福岡藩初代藩主の黒田長政とは兄弟のように育ち、「長政の右腕」に成長。関ケ原の戦いでは長政とともに出陣、活躍した。

 その後、長政との溝を深め、官兵衛の死の2年後に出奔、浪人生活を送る。1614年、徳川家康と対立した豊臣秀頼の求めに応じ大坂城に入り、15年の「大坂夏の陣」で討ち死にしたといわれる。知勇兼備の武将として、作家大佛(おさらぎ)次郎氏の小説のほか、漫画家の手塚治虫氏や永井豪氏の作品にも取り上げられている。

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 「お寺の宝ですよ」。塩先住職(64)は大切に木の箱に入った膳を見せてくれた。

 四隅を切り、内面を赤、外側を黒漆で塗った「蝶(ちょう)足膳」だ。膳の足が蝶の広げた羽に似ていることから名付けられたもので、当時は大名ら格の高い人が使う膳。又兵衛が厚遇されたことがうかがえる。

 それにしてもなぜ、西福寺に保存されているのだろうか。同寺住職として現在27代目の塩先住職が答えてくれた。

 「この寺は小倉藩主だった細川家の御茶屋だった。又兵衛が黒田方を出てから、まず頼ったのが細川家。長政の圧力を思った細川家は寺が一番安全にかくまうことができると思ったのでしょう」

 膳を納めた木箱も、江戸末期の慶応年間に作り替えられたものだ。ふたの表には「後藤基次遺物 塗膳弌前 無漏(むろう)山什器(じゅうき)」、裏には「時 慶応三載 丁卯(ひのとう)仲冬 再製函」と墨で書かれていた。

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 境内には、塩先住職の先代、増谷雄鳳住職=1998年死去=が86年に建立した又兵衛の慰霊塔もある。「寺に滞在時、又兵衛がよく座ったとされた石の上に造られたといわれています」と塩先住職。「膳や慰霊塔など歴代の住職が又兵衛との縁を大事にした証しでしょう」と語る。“悲運の武将”を支えようとした細川家と西福寺。行橋市には知られざる歴史のドラマがあった。

=2018/03/03付 西日本新聞朝刊=

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