戦時下、覚悟の脱線復旧指揮 軍の灯火管制無視、作業完遂 責任を背負い自決 松浦・調川駅長の丸山七郎氏

西日本新聞

 第2次世界大戦前からの炭鉱全盛期、活況を呈した松浦市調川(つきのかわ)町の松浦鉄道(MR、旧国鉄松浦線)調川駅。ここで1943年4月6日朝、自ら命を絶った駅長がいた。丸山七郎氏(当時の年齢不詳)である。戦時下、脱線事故・復旧を巡る責任を一身に背負っての自決だった。地元の有志は「丸山氏は戦争被害者だった」と思いをはせ、慰霊の営みを大事にしていきたいと考えている。

 「おそらく、あの辺りだと思います。当時、私は小学2年になったばかりだったが、学校から帰ると駅付近は騒然としていました」

 今は静かな無人駅となった調川駅のホームが東側で尽きる辺りを指さしたのは、MRから名誉駅長を委嘱されている元中学教諭、沢辺武彦さん(82)=同市調川町。その指し示した方向のさらに数十メートル先の線路右側に大きなクスノキが見える。クスノキに見守られるようにして、45年5月に建立された丸山氏を顕彰する「称頌碑」がある。

 75年前、丸山駅長が勤務中の4月5日夕、駅構内で貨物列車の脱線事故が起きた。折しも米軍接近中の報で4日夜以来の空襲警戒警報が発令中であり、灯火管制が敷かれていた。同市西北に突き出す星鹿半島の城(じょう)山には佐世保海軍警備隊星鹿特別見張所とその東側に民間の防空監視所があった。

 丸山氏は早期復旧を指揮したが日は落ち、やむを得ず、灯火管制を無視する形で明かりをともして作業を完遂した。氏にとってその夜は極めて長い夜となり、そして最後の夜となった。翌朝、事故と軍命令違反の責任を取り、平然と出発合図をした上り機関車に飛び込んだのだった。

 円柱状の碑の裏側には「其ノ旺盛ナル責任観念ハ実ニ我ガ国鉄精神ノ一発露ニシテ後人ヲ感孚(かんぷ)ス」と刻まれていた。「国有鉄道門司地方奉公会」が全国の奉公会に弔慰金を募ったことや市民の同情もあって「一金壱(いち)万七千弐(に)百八拾(じゅう)余円」が集まり、碑の建設費と遺児の養育費に充てた経緯も記されている。沢辺さんによると、丸山氏には自分より少し年下の子どもがいたという。

   ◇    ◇

 この碑が立つ辺りを、高校登下校の列車からいつも見当を付けて思いを巡らせていたのが、今福神社宮司の早田伸次さん(54)=同市今福町=だった。中学生の頃、丸山氏の一件を本紙記事で知り記憶にとどめていた。初めて碑に足を運んだのは10年ほど前。胸に迫るものがあり、雑草などを払い、氏の命日に個人で慰霊を続けるようになった。「果敢で高潔な行いを後世に伝えたいと思った」からだ。

 志の糸がつながり合うように今年1月、MR鷹島口駅の名誉駅長である山口国勝さん(76)=同市今福町=から、沿線の美化作業などを担う「松浦市松浦鉄道協力会」が丸山氏の遺族を探しているとの情報が早田さんにもたらされた。

 早田さんは、何も分かっていないもどかしさを抱えていた。有志による慰霊によって氏の行動が改めて注目され、遺族探しの一助にもなり得ると思案し、共に慰霊することを打診した。

 命日前日の今年4月5日、称頌碑前で初めて営んだ「慰霊祭」には8人が集まった。その一人の吉本務さん(72)=同市志佐町=は協力会の会長を務めていた2016年秋、JR九州に一通の手紙を送っていた。「平和な今日と、鉄道が今なお市民の足として存続できていることへの感謝」をしたため、丸山氏の遺族を探す手掛かりはないかと依頼していたのだ。残念ながら、約3週間後に届いた返信には、情報入手を試みたが進展はなかった旨、記されていた。

 慰霊祭の後、集った有志は語り合った。沢辺さんが「丸山さんの自決が書かれた本に『彼は、国民に少しも幸いしなかった太平洋戦争の痛ましい戦争被害者だった』とあった」とつぶやくと、数人から「同感だ」の声が上がった。

 「あの戦争さえなければ、たとえ脱線事故が起きても丸山さんの命は失われていなかったはずだ」と悼み、慰霊の心は来年以降も有志でつないでいくと誓い合った。そのまなざしは「真の名誉駅長は丸山七郎その人である」と伝えていた。

=2018/05/10付 西日本新聞朝刊=

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