<43>入部3年で「廃部」に

西日本新聞

●バルセロナ五輪女子マラソン日本代表 小鴨 由水さん

 1998年に結婚した私は、岩田屋女子駅伝部の一員として陸上と家庭を両立させながら、新婚生活を送っていました。すると、翌99年の初めごろから、嫌なうわさが耳に入るようになりました。女子駅伝部がなくなるというのです。部は発足して6年。私が入部してからたった3年です。

 でも、そんな予感はありました。新店「Z(ジー)サイド」の不振が響き、岩田屋は97年2月期決算で初の経常赤字を出しました。その後、早期退職者の募集も始まり、さらなるリストラがあるのではと、末端で働く私たちも感じていたのです。

 99年3月のある日、私たち部員はミーティング室に集められます。重松森雄監督が重い口を開きました。

 「大変、残念だが、女子駅伝部は今年4月をもって休部になる」

 休部が「廃部」を意味することは、皆分かっていました。「それでも、みんなの進路は私が責任を持って準備する」と、重松監督は私たちに四つの道を示しました。一つ目は、監督が移籍するサニックス(福岡市)に一緒に移籍する。二つ目は、違う実業団に行く。三つ目は、岩田屋の陸上同好会で走る。四つ目は、岩田屋に残るが陸上は引退する-でした。

 マラソン復帰を目指す私は、実業団に残りたいのはやまやまですが、サニックス女子陸上部の練習拠点は近い将来、福岡県宗像市に移るとのことでした。福岡市のホテルでパン職人として働く夫と、新婚早々で別居しなくてはいけません。それは絶対に嫌でした。

 私が出した結論は、取りあえず岩田屋に残り、1人で走る-でした。面談で監督にそう伝えると、監督も「そうだよなあ」と、私に移籍を無理強いしたりはしませんでした。

 結局、部員12人のうち7人がサニックスへ移籍。2人は別の実業団へ。2人は引退し、私1人が岩田屋に残ってフリーで競技を続けることになりました。

 4月30日、岩田屋女子駅伝部は正式に休部となり、市内で「お別れ会」がありました。OGも集まり、とても和やかな会になりました。最後に1人ずつあいさつすることに。私は「目標のシドニー五輪の前に、部がなくなるのは本当に残念です。でも、実業団駅伝のアンカーも務めて、みんなと一緒に走れてよかったです」と感謝を伝えました。

 走ろう! その気持ちさえあれば、いつでもどこでも走れる-。それが私の偽らざる心境でした。

=2018/05/23付 西日本新聞朝刊=

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