成田空港と革命の幻 論説委員 小出 浩樹

西日本新聞

 成田空港(千葉県)の「旧管制塔」と聞き、半身を乗り出した。再来年、老朽化のため取り壊されるのだという。

 40年前の1978年、開港に反対する新左翼の過激派に占拠された。破壊された窓から大量の書類が投げ捨てられ、3月の空に舞った。ヒット曲「微笑がえし」(キャンディーズ)が春一番の到来を告げていた。

 事件の光景はその旋律とともに記憶に刻まれている。

 あの時代を象徴する管制塔がなくなると知り、思いを巡らす一人である。成田闘争とは何だったのだろうか。

 管制塔事件の翌月、私は上京し、大学1年生になった。「援農に行かないか」。私をそう誘ったのは、イシカワさんという先輩学生である。

 援農とは、農民の仕事を手伝うことだ。空港用地として農地を奪おうとする国家権力との闘いに学ぶのだ、と。

 後に分かることだが、イシカワさんは新左翼セクトの一員だった。名前をカタカナで書くのは偽名だからだ。本名は知らない。

 弁は熱かった。毛沢東思想の信奉者だった。「農村から都市を包囲する」という壮大な社会主義への革命戦略から援農への思いは強かった。

 実際の援農は地味そのものだった。水をまいたか、農具の手入れをしたか、記憶は定かでない。少なくとも、農家のあるじと、革命どころか空港の話もしなかった。先方から見れば、自己満足のためにやって来た暇な学生としか思えなかったのかもしれない。

 現地での反対集会へも何度か足を運んだ。長年の闘争では多数の死傷者が出ていた。イシカワさんは左目の周囲に縫い痕があった。機動隊が撃った催涙弾の一部で負傷したという。名誉の傷である。それだけで一目置かれる時代だった。笑ってはいけない。

 管制塔事件から2カ月後、空港は出直し開港した。90年代になり政府は農民に謝罪した。闘争は事実上終結した。

 学生らが純粋だったことは間違いない。ことの発端は、政府が66年に地元への相談なく空港建設を決定したことだ。農民はチェーンで体を農地に結い、強制収用に抗した。

 今、その胸中に宿る思いは支援者と農民の間で大きな開きがあると聞く。当然だろう。空港を日本の海外侵略の拠点と見立て、その破壊を突破口に革命を夢見た若者たち。先祖伝来の田畑をただただ死守したい農民の願いとは、根本でかけ離れていた。

 弱い者へのしわ寄せ、民主主義の自己否定、革命の幻想。すべてが噴出した。あのころ、誰もが次なる希望、豊かさを信じていた。

=2018/05/30付 西日本新聞朝刊=

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