<51>次男出産で死ぬ思い

西日本新聞

●バルセロナ五輪女子マラソン日本代表 小鴨 由水さん

 2006年のお正月。34歳の私のおなかには、2人目の命が宿っていました。長男は里帰り出産でしたが、今度は兵庫県明石市の実家から母親の小鴨祐子(さちこ)に来てもらい、福岡市の産婦人科医院で産むことにしました。夫の松永光司(こうじ)と、4歳になった長男の悦司(えつじ)は「赤ちゃんが生まれるところに立ち会うぞ」と、がぜん張り切っています。

 1月10日、ようやくその日が訪れますが、かなりの難産になりました。陣痛が微弱だったため、風船を入れて子宮口を開く措置をして、分娩(ぶんべん)台へ。「もう勘弁して」と言うくらい、延々といきみ続けた末、赤ちゃんが出てきました。ところが、次に出てくるべき胎盤が出てきません。子宮に癒着していたのです。医師は、やむなく胎盤を手で引っ張り出し、メスで切り離します。子宮だけを中に戻し、止血の措置をしてくれました。

 夫と長男は、その一部始終を見ていました。ようやく全てが終わり、目を合わせると、夫は涙をにじませたまま言葉に詰まっています。長男がはっきりした口調で「ママ、ありがとう」と言ってくれて、とてもうれしかったです。赤ちゃんを私の胸に横たえ、家族で記念撮影をしました。

 ここまでなら、よくあるいい話ですが、この後、私は死にかけたのです。

 長い出産に立ち会って、おなかがすいた夫たちは、外に食事へ。私はナースコールのボタンを手渡され、1人で分娩台に寝かされていました。すると、急に目の前がチカチカし始めます。何かが体の中心から出ていくような感触もしました。止血が不十分で、子宮から大量出血したのです。ボタンを「ビー」と押したところまで、覚えています。

 その後は、記憶がぼんやりしているのですが、看護師さんがバシバシ私の顔をたたき、「松永さん、松永さん」と呼び掛けていました。食事中の夫は急きょ呼び戻され、輸血の同意書を書きました。後から聞いた話では、私の血圧は上が50まで下がっており、輸血しないと生命に危険がある状態だったそうです。

 まあ、そんなハプニングはありましたが、母子ともに健康な体で退院します。次男は、強く元気な子にと「壮司(たけし)」と名付けました。

 この体験で私がつくづく思ったのは、子どもを産んで育てるより、走る方が
よっぽど楽だということです。マラソンにはゴールがありますが、子育てにはゴールがありませんものね。

=2018/06/01付 西日本新聞朝刊=

PR

連載 アクセスランキング

PR

注目のテーマ