陛下に励まされ27年…「元気でやっています」ラン農家の思い 雲仙・普賢岳大火砕流で被害

西日本新聞

立光一孝さんが撮った写真。天皇陛下から声を掛けられる妻美佐子さん(右から2人目)の膝に座る三男孝介さん、笑顔の長男真一郎さん(中央)=1991年7月10日、長崎県島原市 拡大

立光一孝さんが撮った写真。天皇陛下から声を掛けられる妻美佐子さん(右から2人目)の膝に座る三男孝介さん、笑顔の長男真一郎さん(中央)=1991年7月10日、長崎県島原市

コチョウランを栽培する園芸用ハウスに立つ一孝さん(左)と美佐子さん=長崎県雲仙市

 長崎県雲仙・普賢岳で43人が犠牲になった1991年の大火砕流から3日で27年となった。「平成最後の6・3」。同県雲仙市の洋ラン農家、立光(たちこう)一孝さん(63)は、この日を特別な思いで迎えた。

 「きれいなお花をありがとう」。昨年12月24日、思いがけない伝言が届いた。大火砕流発生時に島原市長だった鐘ケ江管一さん(87)が、天皇誕生日に立光さんが手掛けたコチョウランを贈った翌日だった。「被災地の花」を慈しんだ天皇陛下のお言葉が、鐘ケ江さんを介して立光さんに伝わった。「皆さんは大変ご苦労されました。くれぐれもよろしくお伝えください」

 災害列島・日本。来年退位される天皇陛下はこれまで、さまざまな被災地に赴き、傷ついた人々に膝を接して励ましを送り続けてきた。普賢岳噴火災害はその原点。立光さん一家も当時、避難先で慰問を受けた。「どれだけ時がたっても励まされ続けている」。立光さんは27年間を振り返る。

 普賢岳から麓に延びる水無川の下流域の農家出身。高校卒業後、ミカンの価格暴落で危機にひんした家業を助けようとラン栽培を思い立った。名古屋で3年修業して帰郷し、島原市安中地区で生産を開始。結婚して3人の息子にも恵まれ、順調だった。普賢岳が鳴動するまでは…。

 91年6月3日、普賢岳を見上げると、とてつもない規模の大火砕流が見えた。消防団員だった立光さんは詰め所に駆け付け、水無川上流域の団員に無線で必死に避難を呼び掛けた。が、応答はなかった。犠牲者43人のうち12人は安中地区の団員。小中高の同級生だった分団長も命を落とした。

 同年7月10日、一家で避難していた体育館を天皇、皇后両陛下が慰問された。立光さんは写真撮影係。ひざまずき被災者に声を掛ける両陛下の姿に驚いた。「子どもが外で遊べなくて大変ですね」「頑張ってください」。妻の美佐子さん(59)も直接、励まされた。

 6歳だった長男真一郎さんが不意に「バイバイ」と言うと両陛下は振り向き、笑顔を返してくれた。美佐子さんは「お心遣いがとてもうれしかった」と話す。

 その後も火砕流や土石流が相次ぎ、立光さんはやむなく移転を決意。92年、島原半島北側の雲仙市吾妻町に農業用ハウスを建て、家も新築した。ただ、被災者の救済制度は未整備で、数千万円の借金を抱えた。

 95年、両陛下が島原を慰霊に訪れた。立ち寄った先で被災地の農産物が紹介される中、立光さんの洋ランを皇后さまが気に入られたという連絡を受けて、すぐに皇居へ届けた。

 2014年、黄綬褒章の受章が決まり美佐子さんと上京。多くの受章者を前にねぎらいの言葉を語る天皇陛下の姿を見詰めた。「両陛下とは不思議な縁を感じる」と立光さん。

 昨年の天皇誕生日に鐘ケ江元市長が「初めての半島産の献上品」として選んだコチョウランを育てたのは、27年前に両陛下に「バイバイ」と言った真一郎さん(33)だった。

 自然の猛威に負けず、前を向き続けてきた「平成」が来年4月で終わる。立光さんも今、息子たちに家業を継ごうとしている。「両陛下に、元気でやっていますとお伝えしたい」。島原の大地で立光さんはほほ笑んだ。

=2018/06/04付 西日本新聞朝刊=