「李鴻章狙撃せらる」 編集委員 上別府 保慶

西日本新聞

 最近、日清戦争のおりに福岡日日新聞(西日本新聞の前身)がまいた号外を見る機会があった。その中に1895年、明治でいえば28年3月24日に、山口県下関市で起きた要人テロ事件を報じたものがあり「ほう」とうなった。

 ラジオもない時代のこと。号外は唯一の速報メディアだったが、まけばそれっきりで社の資料庫にも残っていない貴重なもの。本郷美術骨董館九州支店から本紙に寄贈があった。テロ事件を報じた分の号外は文庫本サイズの小さな紙切れだ。漢字などの表記を読みやすく新字体にして紹介する。

 「馬関(下関の別名)電報◎李鴻章狙撃せらる 李鴻章ただ今会見場より帰途 群馬県人小山六之助なる者にピストルにて狙撃せられたり 李は生命に別条なし」

 この時、停戦交渉で来日した清国全権の李鴻章に対し、日本は有利に進む戦況を背景に過酷な条件を突きつけていた。ところが旅館の春帆楼(しゅんぱんろう)での第3回会談を終えて宿所の引接寺(いんじょうじ)へ戻る李鴻章を、小山六之助(本名・豊太郎)が「東洋に正義を敷く日本を邪魔する元凶」と襲ったのだ。

 弾は胸をそれたが左目の下に当たった。世界が注目する中での外交の大失態に、明治天皇はすぐ遺憾の意を表明。陸軍軍医総監らが治療に当たった。事件は清国に有利に働き、日本は譲歩に転じた。

 憲兵や警官に取り押さえられた小山は当時25歳。資産家の家に生まれ、自由党系の「壮士」と称して政治運動に携わったが、その思考は短絡的だった。日本は国際世論をにらんで処分を急ぎ、6日後に山口地裁が「無期徒刑」の判決を言い渡す。小山は12年後に恩赦で網走監獄を出た後は正業に就くことなく、1947年に78歳で死去。山田風太郎作の小説「牢屋(ろうや)の坊っちゃん」のモデルとなった。

 日本の新聞は日清、日露戦争のころから、読者獲得のために号外を盛んに出して今に至っている。特に戦地にいる兵士の家族のために、戦況速報に力を入れた。今回、本紙が寄贈を受けた号外には、日清戦争時のほかに列強が中国へ兵を送った義和団事件(1900年)の様子を伝えるものもある。チャールトン・ヘストンが主演し、若き日の伊丹十三監督も日本軍の中佐役で出た映画「北京の55日」に描かれた清朝末期の動乱だ。

 号外には新聞の毎号に刷られる通し番号がない。ために号外という。今はインターネットによる速報が取って代わりつつあるが、歴史を映してきた紙の重みまでが変わらぬよう、記者のはしくれとしては祈るばかり。

=2018/06/14付 西日本新聞朝刊=

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