異才がこだわった礎 文化部担当部長 野中 彰久

西日本新聞

 当欄では前日から引き続きとなるが、浅利慶太さんについて語りたい。劇団四季の創設者で名演出家というだけでなく、演劇の枠を超えた異才が最もこだわっていたものは何か。私は「芝居だけで食べていく」ことだったと思う。

 以前、横浜市にある稽古場、四季芸術センターを訪ねた時、浅利さんは稽古の終わりに、俳優、スタッフの全員を集めた。次の公演について話した後、ポケットから5センチほどの鉛筆を取り出して掲げた。「ぼくは鉛筆をこんなになるまで削って使っている」

 普通、演出家は俳優に経費削減の話などしない。浅利さんは違った。四季という企業を成長させなければ「芝居だけで食べていく」ことはできないと俳優にも意識させた。

 多くの劇団のように、看板俳優がテレビや映画で稼いだお金を劇団に入れるやり方も認めなかった。俳優が人気を失えば劇団は存続できない。あくまでチケット販売にこだわり、営業に力を入れた。

 だが、四季の知名度が上がるまでは、簡単には売れなかった。浅利さんは、出身校・慶応大のOBを出発点に、チケットを買ってくれる有力者を探す。政財界に広がる人脈はこうして築かれた。スタッフは年末、有力者の自宅にお歳暮を届けに行かされた。歳暮の品は、大道具などの保管拠点がある長野の名物、わさび漬(づけ)だった。地位のある人の前でもおじけないようにする営業力訓練の意味もあった。

 演劇ファンを増やそうと地方公演にも力を入れ、俳優やスタッフは各自の地元に振り分けられた。浅利さんは彼らの出身地をよく覚えていた。

 こうした努力を重ね、1953年に仲間10人で旗揚げした四季は、従業員1300人を養う大企業に育った。

 なぜ、浅利さんは「芝居だけで食べていく」ことに、こだわったのか。著書でこう述べている。「劇団経営は表現の自由を獲得するための闘いだと思います」。生活の基盤がなければ、自由な表現はできないと信じていた。

 浅利さんの四季は当初、新劇の自然主義的なリアリズムを批判し、新しいリアリズムを目指したが、やがてミュージカルに比重を移し、初心を貫いたとは言い難い。新しいリアリズムは90年代以降、「静かな演劇」の平田オリザさんらが創り出す。ただ、浅利さんが「芝居だけで食べていく」努力を重ね、演劇の土壌を耕さなければ、それが花咲くこともなかっただろう。

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 ▼のなか・あきひさ 佐賀市出身。1987年入社。写真部、北九州支社、文化部、地域報道センター、バンコク支局などを経て現職。

=2018/08/01付 西日本新聞朝刊=

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