被爆電車と駆けた14歳 旧広島電鉄女学校の車掌・笹口さん 喜び、悲しみ、色あせず

西日本新聞

 長崎と同じように、広島の路面電車でも戦時中、10代の少女が運転士や車掌を務めた。田舎から夢を膨らませてやって来た広島電鉄家政女学校の生徒だ。車掌を務めた当時14歳の笹口里子さん(87)=広島市=は、今も現役で走る被爆電車を見るたび、終戦後に廃校した「幻の女学校」での青春を思い出す。

 家政女学校は1943年、広島電鉄(同市)が運転士や車掌を確保するために開校。「電車の仕事を手伝って、お給料をもらい、勉強もできる」。農村や漁村の娘が親元を離れ、憧れの都会・広島に出た。幼いころに父を亡くし、米を作る母や弟と島根県で暮らしていた笹口さんもその一人。「お母さんに楽をさせたい」。45年4月、先に入学していた姉を追い、8人部屋での寮生活が始まった。

 「次は八丁堀でございます。お降りの方はございませんか~」。1カ月ほどで車掌の仕事を任された。「朝番」は早朝5時、鐘の音で起こされ、大豆かす入りのごはんで腹ごしらえ。職場までの道はみんなで合唱した。電車の鐘を「チン」と鳴らせば止まり、「チンチン」と鳴らせば発車する。新人車掌でも、気持ちは一人前だった。

 8月6日は「午後番」で爆心地から約2キロの食堂にいた。青白い光がばっと上がった瞬間、気を失った。がれきからはいだし、相部屋の親友とひたすら歩いた。兵隊が穴を掘り、遺体をぽんぽん投げ入れていた。その中に先輩の姿が見えた。「親御さんに教えてあげたらいいのにな」と思った。

 数日後、「明日から車掌をしてくれないか」と先生に頼まれ、驚いた。生き残った社員や陸軍が軌道内のがれきを撤去し、電車は被爆3日後に動き始めた。乗客はみな押し黙っていて「誰か捜しに行ってんかね」と思った。「電車賃はいらん」との指示通り、財布を出そうとしたおばさんに「お金はいりませんよ」と伝えると「ありがとうございます」とうれしそうな顔を見せたことを覚えている。

 女生徒309人のうち、30人が亡くなった。その年の9月、役目を終えた学校は2年で廃校となり、「幻の女学校」とも呼ばれた。

 戦争に翻弄(ほんろう)され、少女たちの人生も大きく変わった。黒い雨を浴びた姉は57歳のときがんで亡くなった。共に生き延びた親友も数年前に他界。笹口さん自身も体力の低下を痛感する。あの日被爆した電車のうち2両は、今もラッシュ時に多くの人を運ぶ。「頑張って走りよるねえ」と感心する。

 長崎でも、同じ年頃の少女たちが車掌を務めていたことを最近、知った。「同じ青春を過ごした人がいるなんて。一生を大事に暮らしてほしい」。亡き友の分まで、と広島から願う。

=2018/08/05付 西日本新聞朝刊=

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