「助けた女学生 元気で」 熊本大空襲ともにくぐり抜け 水俣市の92歳・小山節郎さん 交わした言葉今も鮮明

西日本新聞

 あの戦争が終わってからまもなく73年。戦争体験者が少なくなる中、忘れられない記憶をかみしめている人もいる。熊本県水俣市の小山節郎さん(92)もその一人。焼夷(しょうい)弾が降り注いだ1945年7月1日の熊本大空襲当時、偶然居合わせた女学生たちを連れて逃げ回った。今年も空襲日の日記に記した。「あの娘達はどうしているかナ。元気でいればよいが」-。

 戦後、食料品店を切り盛りし、平成に入ってからはカラオケ教室を主宰したり、趣味の写真や詩句を作ったりして穏やかに過ごしてきた小山さん。ただ、生死を分けたあの夜の恐怖を忘れることはない。

 44年1月、旧制宇土中(現県立宇土高)から旧陸軍の爆撃機を製造する旧三菱重工業熊本航空機製作所(熊本市)に入社。同年秋、「鍛鋳(たんちゅう)品」と呼ばれる部品の手配をする部署の「技手(ぎて)」となった。

 戦局の悪化とともに部品の調達は難航。45年2月、名古屋にある親工場まで雑嚢(ざつのう)を背負って部品を融通してもらいに行った。空襲の痕跡で真っ黒にすすけた宿泊先の部屋を目の当たりにし、予定を切り上げて引き返した。当時18歳。「怖くなって…」。小山さんの報告に上司は苦笑した。

 熊本大空襲は、部下の工員2人と一緒に借家に引っ越した日の深夜に始まった。空襲警報が鳴り響き、庭先の防空壕(ごう)に駆け込んだ。爆弾のさく裂音が耳をつんざき、借家は真っ赤に燃え上がった。じっとしていられず飛び出した。

 電停の先で、7~8人の女学生の集団が立ちすくんでいた。「どうした」。声を掛けると、1人が答えた。「怖くて…」。5カ月前、名古屋から逃げ帰った日を思い返した。「よし、走ってついてこい。ここにいても死ぬだけだぞ」。小山さんは畑に向かって走りだし、女学生たちも従った。

 頭上から無数の爆弾が落ちてきて、建物は次々と火炎に包まれた。米軍のB29爆撃機154機が1107トンもの焼夷弾を投下して熊本上空を去ったのは、翌日午前1時半ごろ。熱風と煙に巻かれながら夢中で走り回った小山さんは、気がつくとはだしだった。「誰か、何でもいいから履物を持っていないか」。女学生の1人が近くの寄宿舎からわら草履を持ってきてくれた。その後、実家までの約35キロを夜通し歩いて帰った。

 女学生たちは長崎県佐世保市出身で、当時熊本市にあった官立熊本無線電信講習所(現熊本高専)で学んでいると説明した。「けがした人はいないか」。爆撃機が去った後、小山さんが声を掛けると、女学生たちは「大丈夫です」「助かったのはあなたのおかげです」と頭を下げたという。

 空襲による死者・行方不明者は400人以上。ともに爆弾の雨をくぐり抜けたわずかな時間、交わした言葉の一つ一つを鮮明に覚えている。「あれからどんな人生を送ったのか。できることなら聞いてみたい」。卒寿を過ぎた小山さんの願いは、日に日に大きくなっている。

=2018/08/12付 西日本新聞朝刊=

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