庶民の戦争資料館、強制連行……女性が伝える戦争体験

西日本新聞 筑豊版

 15日は73回目の終戦記念日。戦争を知る世代が減っていく中、平成最後の節目の日を、体験者はどのような思いで迎えるのだろうか。戦争の時代を生き抜き、平和を訴えてきた2人の女性を訪ねた。

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「戦争資料館」庶民の目で 小竹町・武富智子さん(92)

 ずっしりと重い鉄かぶとや軍服、千人針…。兵士の遺品や戦争にまつわる資料を集めた小竹町の「兵士・庶民の戦争資料館」。館長の武富智子さん(92)は同じ敷地内の自宅でゆっくり右足を動かし、リハビリに励んでいた。5年前に脳出血で倒れ、車いすが欠かせなくなった。資料館の案内役は長男の慈海さん(69)に任せているが、「来年春にはつえで歩けるようになり、復帰したい」と力強く話した。

 約200点の資料が並ぶ広さ20畳ほどの施設は、旧穂波町(現飯塚市)で暮らしていた1979年、夫の登巳男さんが「戦争は伝え続けないと忘れられる」と、自宅の一角で始めた。現在の場所に移転してから5年後の2002年、登巳男さんが84歳で亡くなり、智子さんが館長を継いだ。

 太平洋戦争中、旧陸軍の飛行部隊で偵察任務に携わった登巳男さんは、戦場で命を落とした同僚の無念を代弁するかのように、資料館の運営に携わった。だが、智子さんは戦場を知らない。資料館を続けるべきか思い悩んだが、慈海さんに「お父さんが兵士の立場で戦争を伝えてきたのなら、お母さんは庶民の立場で話せばいい」と説かれ、覚悟を決めたという。

 智子さんは戦時中、幸袋町(現飯塚市)の国民学校で教員を務めていた。戦局の悪化に伴い、敵機襲来の恐れを知らせる警戒警報が増え、そのたびに子どもたちを机の下に隠れさせたり、自宅まで送ったりした。授業はほとんど出来なかった。

 子どもたちはおなかをすかせ、教室に置いていた弁当箱が盗まれたこともある。「まともな教育をしてあげられなかった」。教え子たちへの申し訳ない気持ちと戦争への怒りが「資料館に立ち続けたい」との思いにつながっているという。

 この夏、資料館は、旧日本軍が現在のインドネシア領の島で住民数百人を殺害したとされる「ババル島住民虐殺事件」の特別展を開いている。85年に登巳男さんが古物商から旧日本軍の報告書を入手し、内容が改ざんされていたことを明らかにした資料が並ぶ。

 森友学園を巡る財務省の決裁文書改ざんなど「真実を隠そうとする風潮」への懸念から、慈海さんと相談し、11年ぶりに企画した。

 政治の世界では今、憲法9条改正に向けた動きが活発になっている。智子さんは「一般の人たちはあまり関心がない気がする」と話し、こう続けた。「戦争体験者はあと5年もしたらこの世から去ってしまう。平和を守るためにも、本当の戦争のことを知ってほしい」

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朝鮮人労働者の辛苦綴る 桂川町・大野節子さん(92)

 「この土地で暮らす以上、歴史を正しく知らなければならない」。戦時中、朝鮮半島から多くの人が筑豊に強制連行され、炭鉱で労働を強いられた。そうした労働者らの証言を集めてきた桂川町吉隈の大野節子さん(92)は、活動への思いを話してくれた。

 大野さんには忘れられない人物がいる。30年以上前、炭鉱殉職者の慰霊碑の再建活動を通して知り合った鄭清正さんは17歳の時、現在の韓国・慶尚北道から旧麻生吉隈炭鉱(桂川町)に連行された。過酷な労働に耐えきれず、半年後に脱走。大阪や東京などに身を潜め、生き延びたという。

 大野さんも同じような経験がある。19歳の時、満州で終戦を迎えた。現地の人たちに自宅を襲われ、家族5人で難民収容所に入った。だが、部屋は狭く、風呂は月1回だけ。食事は、米が浮くぐらいしか入っていない吸い物ばかりだった。3カ月後、雪が降る夜に収容所を脱出。その後、身を寄せていた別の施設で引き揚げ船の情報が入り、40日かけて港を目指した。

 「私も生き延びるために必死に逃げた。(鄭さんも)同じやと思って胸が詰まった」。証言集めに力が入った。

 聞き出した朝鮮人労働者の暮らしは過酷だった。炭鉱では長時間働かされ、食事は満足に与えられず、日常的に暴力を振るわれた。寮で働いていたある女性は、体調を崩し「休ませてほしい」と訴えただけで暴行された労働者に、こっそりにぎり飯を渡した時の話を涙ながらに語った。

 住民グループ「強制連行を考える会」の代表を約30年務めた大野さんはいま、自伝を執筆している。原稿には証言の一部が記されていた。「時代の節目を迎えるいまこそ、誰か一人にでも、炭鉱労働者の辛苦が届くことを願っている」

=2018/08/14付 西日本新聞朝刊=

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