さっちゃんの思い出 編集委員 上別府 保慶

西日本新聞

 この盆に帰省した折に、84歳になる母親がふと話し始めたのは、戦時中に国民学校(今の小学校)に通っていたころの「さっちゃん」という同級生の思い出だった。

 その学校は、今は芋焼酎の「伊佐美」や「伊佐錦」の醸造元があることで知られる鹿児島県伊佐市の農村にあった。さっちゃんは勉強ができて副級長を任せられていたが、股関節が悪く、走る時はよたよたと後ろからついていくのが精いっぱいだった。

 本土決戦が近いということで、国民学校でも教練は厳しさを増していた。いつもの駆け足が始まり、さっちゃんはうまく走れぬことへの照れなのか悔しさなのか、つい笑顔を浮かべてしまった。それを担任の若い女性教師が見とがめた。「魂が入っとらん」。さっちゃんを引っ張り出し、みんなの前でビンタをした。パシンと音が鳴った。

 男の教師がごっそり戦地に取られ、それが女性の教師に肩肘を張らせていたのかもしれない。とはいえ見た目はお姉さんのような先生が、しかも、さっちゃんの障害をよく知りながら鬼のような形相でたたく姿に、子供たちは凍りついた。さっちゃんはビンタの後で言った。

 「うちは将来、絶対に先生になっど。先生になって、毎日、あん先生ん子をたたいちゃる」

 その先生は軍人との縁談があり、教壇を去っていた。

 当時の国民学校の子供たちは、戦死した英霊の家の葬儀や、働き手を奪われた農家の勤労奉仕に駆り出されるなど戦時一色の日々だった。葬式では夫の骨箱を抱いた妻を整列で迎え「一同礼」をした。箱の中は多分空だという話だった。麦踏みの勤労奉仕では老いた農夫が「40代にも召集令状が来たちゅうど。日本はおしまいじゃろかい」とつぶやいた声を覚えている。

 南方からのゴムの供給が乏しくなり、ただでさえ破れやすくなっていた運動靴の配給は年に1学級当たり5足程度に。それも、くじ引きとなった。通学ははだし。運動場を走るのもはだし。雪が積もった時だけ、げたやわら草履を履くことを許された。

 やがて日本は負け、街の映画館に洋画がかかるようになり、母は「こんな相手に勝てたわけがない」と思い知る。さっちゃんは郵便局勤めの男性と結婚して主婦になったと風の便りに聞いた。だとすれば教師になって、先生の子をビンタするようなことはないなと、母はほっとした。

 「平和になった今ん日本を見ちょっと、まるで別の国のようよ。今ん人にゃ、分からんじゃろうがねぇ」

=2018/08/16付 西日本新聞朝刊=

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