悲しみや労苦 今も心に 半島で終戦、佐世保に引き揚げ 対馬市の二宮さん語る「戦争したら、終わりです」

西日本新聞

父、勇さんの遺影を持ち、幼い時代の思い出を語る二宮達磨さん 拡大

父、勇さんの遺影を持ち、幼い時代の思い出を語る二宮達磨さん

対馬市豊玉町にある「慰霊の塔」の前で手を合わせる二宮さん

 戦時中、日本が統治していた朝鮮半島東部の元山(ウォンサン)(現在の北朝鮮・元山)に、家族で移り住んだ対馬市豊玉町の二宮達磨(たつま)さん(81)。現地で1年半余り暮らし、終戦翌年に日本へ戻った。まだ幼かった二宮さんの心に、現地で目にした光景や体験は、しっかりと刻まれている。当時の労苦、身内を失った悲しみは、多くの引き揚げ者とも重なる。二宮さんが、語った。

 父、勇さんは1941年に出征。元山の日本海軍航空隊で機体の整備を担当した。44年11月、二宮さん一家は父のもとへ向かうため、海を渡った。

 当時、二宮さんは小学1年の7歳。母は29歳、妹は2歳だった。経路は覚えていない。とにかく寒く、到着すると雪が積もっていた。

 家族4人で航空隊の官舎に暮らし、20分ほど歩いた所にある日本人学校「本町小学校」に通った。木造の校舎には500~600人の児童がいた。

 官舎での食料は配給制。「よく麦を食べていました。肉や魚は食べた記憶がないんです」。だが、ひもじい思いをしたことはなかった。「官舎に暮らす軍人の家族は、きっと優遇されてたんでしょう」

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 45年8月、二宮さんが2年生の夏休みに終戦を迎え、日本人学校は閉鎖された。

 その後も食料の配給はあったが、穀物の一種「コーリャン」が中心になり、かゆにして食べた。麦飯のような食感だった。

 朝鮮半島は北緯38度線で分断され、北側をソ連軍、南側を米軍が占領した。一家がいたのは北側。母親がソ連軍人の家の手伝いなどをして、報酬として手に入れたジャガイモなどで飢えをしのいだ。民謡の「カチューシャ」も口ずさんだ。「日本人の子どもたちもよく歌っていましたよ。テンポのいい『恋の歌』ですよ」

 終戦を迎えても、すぐには日本に帰れなかった。「世の中が混乱していましたから。母も大変だったと思います」

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 終戦から10カ月ほどが過ぎた46年6月。やっと帰国できるようになり、官舎の近くの寺にみんなが集まった。境内では遺骨を俵に詰める作業も行われ、その多さに驚いた。父を残して列車に乗り込んだ一家は、38度線を越える前に降りた。どこだったのか、なぜだったのか、それは今も分からない。

 野宿をしながら1週間ほど歩いた。妹は母親が背中にしょった。途中、行き倒れの人も見た。

 ソウルに入って寺に泊まり、トラックで今の韓国北西部の仁川港へ。佐世保行きの引き揚げ船の中では、病気で命を落とす人も少なくなく、死者の前で手を合わせ、追悼の歌をささげる人たちもいた。いつ、誰がそうなってもおかしくない状況だった。

 佐世保港は各地からの引き揚げ船でごった返し、二宮さんたちの船は近くの浦頭(うらがしら)に停泊。伝染病検査のため1週間ほど船内で過ごし、針尾島に上陸し、DDTと呼ばれる防疫殺虫剤を体中に浴びた。当時、外地からこの場所に140万人が引き揚げてきた。

 佐世保の南風崎(はえのさき)駅から貨物列車で福岡へ向かった。福岡は、焼け野原だった。「すごい、これが戦争か」。子ども心にそう思った。元山でも目にしたことがない光景だ。

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 家族3人は、博多港から貨物船に乗り、故郷の対馬にようやくたどり着いた。父の勇さんはソ連軍の捕虜となり、46年、シベリアで亡くなった。享年36歳。遺骨はない。母(享年91歳)にそう聞かされた。

 25年ほど前、豊玉町に太平洋戦争などで戦死した地区の戦没者268人を追悼する「慰霊の塔」が建立された。二宮さんは昨年3月まで12年、地元の遺族会会長を務め、定期的に除草作業や植木の手入れをしながら慰霊碑の管理を続けてきた。現在は理事を務める。

 「時代が変われば戦争があったことも昔話のようになってしまうかもしれない」。慰霊の塔を見つめながら、そう思うときもある。犠牲になるのは弱い立場の市民だ。「戦争で二十歳前後の若い人たちが、いわれなく死んでいった。母親たちも、どんなに悲しんだろうか」

 終戦から73年。漁協職員を定年まで勤め、家族にも恵まれた。国境と向き合う島、対馬に暮らす二宮さんは今も時折、慰霊塔の前に立ち、犠牲者の冥福を祈る。「戦争をして何もいいことはありません。戦争をしたら、もう終わりです」

=2018/11/01付 西日本新聞朝刊=