朝鮮半島に引き揚げ中、玄界灘で遭難 慰霊の在日韓国人ら増える 壱岐の寺へ、埼玉から遺骨移管

西日本新聞

 終戦直後、朝鮮半島へ引き揚げ途中に玄界灘での海難事故で亡くなった朝鮮人とされる遺骨131柱が、長年保管されていた埼玉県の寺から今年5月、事故現場に近く、供養を続けてきた壱岐市芦辺町の天徳寺に移された。遺骨はもともと、壱岐や対馬に流れ着いたものだった。移管後は、寺を訪ね、犠牲者を慰霊する在日韓国人や韓国からの観光客の姿が目立つようになった。その中には海難事故で生き残り、帰還した男性の家族もいた。

 10月27日、韓国・昌原(チャンウォン)市の高校教諭、許亨道(ホヒョンド)さん(56)は、遺骨が安置されている納骨堂で静かに手を合わせた。父親の宗星(ジョンソン)さんは、1945年10月に壱岐沖で遭難した船から脱出し、助かった一人。当時は20代前半。98年に74歳で亡くなったという。

 亨道さんは小学生の頃から、事故の様子を父親から何度も聞かされた。犠牲者を悼む思いを共有した。現場となった壱岐のことを知りたいと、3年前に初めて来島。今回は2回目の訪問だった。「埼玉にあった遺骨が韓国に近い壱岐に安置されたことは非常によかった。早く韓国に戻ることを願っている」と話した。

 「少しでも祖国の近くで供養を」と、遺骨の壱岐移管に奔走した天徳寺の西谷徳道住職ら日韓の関係者は、韓国への返還を目指しているが、政府間協議が進まずめどは立っていない。

 佐世保市在住の韓国からの留学生、成楽仁(ソンナギン)さん(26)も10月、韓国のテレビ局の通訳として天徳寺に初めて足を運んだ。寺に安置されている遺骨のことは、壱岐に来るまで全く知らなかったが「遺族は痛みを今もずっと抱えているだろう。韓国と日本の両政府の都合で(韓国に)戻れないのは残念だ」。

 45年9~10月、台風の直撃で、朝鮮半島を目指した大勢が玄界灘で犠牲になったとされる。遭難の公式記録はなく、詳細は分かっていない。多くの遺体が流れ着いた同市芦辺町では、住民有志が67年に慰霊碑を建立。天徳寺では戦後間もないころから毎年10月に慰霊祭を行い、98年からは韓国・慶州市の水谷寺と交互に開催している。

 壱岐市観光連盟は、韓国からの観光客などに遺骨のことを紹介し、希望があれば天徳寺に案内。寺では西谷住職が遺骨が国内を転々とし、壱岐に移った経緯などを説明している。西谷住職は「最終的には韓国に遺骨を返すのが目標。それまでは韓国に近い壱岐で預かり、供養を続けたい」と話した。

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■「助かったのは三十数人」 乗船の父、息子に当時を語る

 許亨道さんは今回の壱岐訪問で、遺骨返還を支援する人たちに父親の宗星さんの体験を語った。それによると-。

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 宗星さんは戦時中、現在の韓国南部の固城(コソン)郡で暮らしていたが、徴用で1944年から終戦まで、小倉陸軍造兵廠(しょう)(北九州市)で武器を作る仕事に従事した。

 45年8月15日、小倉の街に玉音放送が流れた。すぐに朝鮮半島へ帰ろうとした。港で寝泊まりしながら、船を待ち続けた。秋になり、ようやく船に乗れたが、台風が直撃。エンジンが故障し、壱岐島の芦辺湾で遭難した。「船には300~400人が乗っていたが、岸辺は岩が多く、接岸できなかった」

 20代前半だった宗星さんら一部の人はその夜、乗っていた船から小さな船へ乗り移った。「荷物は持たなかった。(嵐の中)危ないので体力のある人だけが一人ずつ飛び移ることができた。一晩かけてやっと三十数人しか乗り移れなかった」

 上陸後、丘の上にあった小学校に収容された。翌朝、乗っていた船は二つに割れて沈没していた。小学校には、地元の人がおむすびやゆでたサツマイモを持ってきた。

 一週間ほどたった頃、朝鮮半島から来た小さい「闇の船」に乗り、3日かけて釜山に戻った。

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 「もし船から父が脱出できなければ、私は生まれてない」と許亨道さん。今、日本に関心を持ち、日本語を学んでいるという。

=2018/11/15付 西日本新聞朝刊=

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